だまし討ちでなかったパール・ハーバー
日本海軍のハワイ真珠湾奇襲攻撃は、日本がアメリカに宣戦布告をする前であった。
『だまし討ち』をされたアメリカ国民は激怒し、「リメンバー・パール・ハーバー!」の名の元に、国民が一丸となり、日本との戦争へ突入した。
学校で学び、テレビや新聞・雑誌の特集で確認し、感動的な映画を鑑賞し続けたこの歴史を、私たち日本人は疑うことなく信じ、反省し、戦前の日本人を私たち戦後世代は批判してきました。
果たして、本当に、そうだったのでしょうか?
真実は、『だまし討ち』など、一切していなかったと言ったら、どう感じますか?
「何をバカなことを」と一笑に付すでしょう。
しかし、「真実は小説よりも奇なり」
真珠湾攻撃の真実とは、『宣戦布告が遅れた』などということは一切なく、世界の開戦慣例にのっとり、しっかりと、天皇陛下の名の元に宣戦布告がなされていたのです。
現に、パールハーバー攻撃が開始される数時間前、マレーにおいて日本陸軍との戦端が開かれたイギリスでは、「だまし討ち」など一言も触れていません。
私たちが信じてきた、宣戦布告が遅れたなどというのは、実は、笑止千万な話なのです。
実は、宣戦布告というものは、右往左往して出すものではないのです。
戦争前に宣戦布告を書面にして相手国に手交し、その後、戦端を開くなど、どこの国もやったことのない事例です。
それまでの世界の戦争慣例では、一発目をくらわせてから、自国の国民に向かって発表するのが『宣戦布告』の手続きだったのです。
日本も、真珠湾及びマレー半島の攻撃を開始した後、天皇陛下の名の元に宣戦布告『米英両国に対する宣戦の詔書』を大本営から出す手順がしっかりとあり、実際そのようになされました。
その文章は、歴史家の徳富蘇峰(とくとみそほう)が起草した立派なものでした。
大東亜戦争の開戦を布告した詔書 開戦時に官公庁や地方の役所に配付されたもの
宣戦の詔書(現代語訳)
天の助けにより万世一系の皇位を受け継いできた大日本帝国の天皇が、忠誠にして武勇である国民に示す。
私はここに米国及び英国に対し、戦いを宣言する。陸海の将兵は全力をふるって戦いに当たり、武官や役人たちはその職務に励みつとめ、国民もそれぞれの本分をつくし心を一つにし、国家の総力を挙げて、間違いなく戦いの目的を達成するよう期してほしい。
そもそも、東アジアの安定を確保し、世界の平和に寄与することは、明治天皇から大正天皇へと受け継がれてきた将来への配慮であり、私が常に心に留めてきたことである。そして、各国との友好を大切にし、すべての国がともに栄える喜びを共有することもまた、日本が常に外交の要諦(ようてい)としてきたことである。今、不幸にして米英両国と戦いを始めるに至ったことは、実にやむを得ぬことであり、私の意志であろうはずがない。
中華民国の政府が先に、日本の真意を理解せず、みだりに事を構え、東亜の平和をかき乱し、ついに日本に戦いを始めさせてから4年余りがたった。幸い、国民政府は新たに生まれ変わり、日本はこれ(汪兆銘政府)と善隣友好の関係を結び、ともに提携するようになった。ところが、重慶に残存する政権(蔣介石政府)は米国、英国の庇護(ひご)に期待して仲間内の争いをやめようとしない。
米英両国はこの残存政権を支援し、東亜の乱を助長し、平和の美名にかくれて東洋を制覇しようという誤った望みを持とうとしている。そればかりか、その同盟国に働きかけて日本の周辺に軍備を増強して我々に挑戦し、さらには日本の平和的な通商にあらゆる妨害を加え、ついに経済断交まで行い、日本の生存に重大な脅威を与えている。
私は政府に事態を平和裏に解決させようとし、長く耐えてきたが、彼らはまったく互譲の精神はなく、いたずらに解決を延ばそうとし、経済上や軍事上の脅威を一段と増し、日本を屈服させようとしている。事態がこのまま推移すると、東亜の安定についての日本の長年の努力はことごとく水泡に帰し、日本の存立も危機に瀕してくる。ここに至って、日本は自らの存立と自衛のために蹶然(けつぜん)と起ち、すべての障害を打ち破るほかないのである。
皇室の祖先や歴代の天皇が、天から見守ってくださるであろう。私は国民の忠誠や武勇を信じ、歴代の天皇の遺業をおし広め、速やかに禍根を取り除き、東亜に永遠の平和を確立し、日本の光栄を守ることを期そうとするのである。
御 名 御 璽
昭和十六年十二月八日 各国務大臣副書
なぜ宣戦布告が遅れ「卑怯なだまし討ち」となったのか?
暗号解読及びタイピングに手間取り、野村吉三郎駐アメリカ大使と来栖三郎特命全権大使が慌てふためきながらアメリカ国務長官コーデル・ハルに手渡した書類は、実は、宣戦布告書などではなく、ハル・ノート(※巷では「実質的な最後通牒」などと、もっともらしく語られているが、これも間違いである)に対する、単なる返答でしかない「交渉打ち切り通告」だったのです。
本来は、渡す必要すらなかった「交渉打ち切り通告」を几帳面に手渡したばかりに、ルーズベルト大統領によって、厭戦(えんせん)気分が蔓延(まんえん)していたアメリカ国民を戦争に駆り立てるべく、いいように利用されてしまったというのが、歴史の真実なのです。
昭和16年12月8日(日本時間)、ハル・ノートに対する『回答書』を手交した。
左から、ハル国務長官、野村大使、来栖大使
「日本に、だまし討ちをされた!」となったのは、第一次世界大戦で自国とは関係のないヨーロッパの戦場で多くの若者が死に、厭戦気分が蔓延していた当時のアメリカ国民を一気に戦争へと向かわせるため、ルーズベルト大統領が策略した『作り話』でしかなかったのです。
ルーズベルト大統領は、ドイツと開戦する理由作りのため、そして支那(中国)の利権を我が手に奪い取るため、アメリカの若者たちを戦場へ送り込むべく、アメリカ国民の激しい怒り、感情的爆発を起こす「事件」を創り出す必要があったのです。
「だまし討ち」をアメリカ政府が言い続け、アメリカ国民が信じることは、アメリカ合衆国の国益にかなうことなので、何の問題もないでしょう。
問題なのは、そのことで国益を損ねる日本人までもが、戦後70年近く経った今でも『間違った歴史』を学校で教えられ、テレビや映画で放映され続けた結果、信じ続け、過去の日本人は悪かったと反省し、懺悔(ざんげ)し続けていることなのです。
加えるならば、アメリカの方が先に、日本に対して宣戦布告をせずに戦端を開いていた事実を、日本人は知らな過ぎます。
なお、日本時間の12月8日11時45分、日本政府は、米英加豪四ヵ国の駐日大使を呼び「宣戦布告書」を手交したとする、歴史学者も多いのです。
また、肝心のアメリカは、第2次世界大戦以降、21回もの戦争もしくは武力行使を仕掛けましたが、戦争開始前に「宣戦布告書」を手交したなどとは、ついぞ聞いたことがありません。
このような「重要な問題」ですらこの有様ですから、その他、数多(あまた)ある歴史事実についても『真実の歴史』など、私たち日本人は、知らされていのではないでしょうか。