戦後、日本国憲法を作った男
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白洲次郎 VS ケーディス大佐
敗戦後、日本国および日本人に主権が無かったGHQの占領下で日本国憲法を作るトップに君臨していた、GHQ民政局次長のケーディス大佐はCIAの前身にあたるOSSのヨーロッパ担当でした。
OSSには知識人向けマルクス主義であるフランクフルト学派が多く潜入していました。彼等のほとんどはユダヤ人であり、ケーディス大佐もユダヤ人です。ケーディス大佐はフランクフルト学派の思想に染まっていたと考えられます。
ケーディスはGHQ憲法の首魁であり、教育勅語を廃止しました。GHQ憲法を貫いているのはインターナショナリズムであり、ナショナルホームを喪失したユダヤの願望が入っています。日本を共産化に導くための仕掛けも入っています。ケーディスの友人に共産主義者ハーバート・ノーマンがおり、彼がケーディスに働きかけ、教育勅語を廃止しました。共産革命を起こすためには立派な国民性があるとそれが邪魔なのです。
このケーディスの横暴に吉田茂と終戦連絡中央事務局次長であった白洲次郎は激しく対抗しました。GHQ民政局は反吉田茂であり、日本の政局にも口を突っ込んで、吉田を総理から引き摺り下ろし、片山内閣(社会党)が誕生したということがあります。GHQはこの片山内閣の組閣人事にも首をつっこんで農水候補だった平野力三の入閣阻止に動きました。白洲次郎はG2のウィロビー経由でマッカーサーに働きかけ、平野氏の公職追放を阻止しました。
ケーディス大佐いわく。「白洲は実際すばしこい男で、球をかかえてタックルをすり抜けて走るフットボールの選手に似ていた」
ケーディスはそれでもあきらめず、平野を公職追放にしました。最高裁でも争われ、公職追放に該当なし、という結果が出たにもかかわらず、「公職追放は超法規的なもので日本の司法権は及ばない」と主張し、平野を退けました。ところがこれで平野派40名の支持を失ったケーディスお気に入りの社会党・片山内閣は総辞職に追い込まれてしまったのです。ケーディスは、今度は芦田内閣を誕生させました。吉田茂と白洲次郎はGHQの民政局とは仲の悪いG2とタッグを組んで全面戦争に突入します。
ケーディスは鳥尾敬光子爵夫人と不倫関係になります。ケーディスにも妻がいました。マッカーサーはケーディスのようなケースが増えないように高官に限って妻子を呼び寄せるように指示しました。ケーディスの妻キャサリンは来日すると、キャサリン宛に一本の匿名電話がかかってきました。「あなたの夫に日本人の恋人がいるのをご存知か」。すったもんだして結局二人は離婚。後に匿名電話の主は吉田茂の周辺の人物であることがわかったといいます。恐らくは白洲次郎の策略でしょう。
また、昭電疑獄事件という融資不正の事件が発覚し、疑惑の主である昭和電工の日野原社長は事件をもみ消すため、大規模な贈賄を使いました。この日野原社長の愛人が鳥尾夫人の経営する高級様相店に出入りしていたためケーディスにカネがわたったという報道がされました。もちろんガセなのですが、こちらのほうはG2のウィロビーあたりが警視庁の刑事を使ってガセ情報を流したようです。
こうしたスキャンダルによりケーディスの影響力は低下し、昭和23年10月15日、第二次吉田内閣が発足します。昭和24年1月23日の総選挙でも吉田茂の民自党が圧勝。財政顧問のドッジが来日し、民政局の影響力は日増しに低下していき、ついにケーディスは一時帰国を決意しました。
ケーディスは帰国すると国務省のジョージ・ケナンを訪ねています。そしてこういわれました。
「あなた方は、日本を共産主義国家にしてソ連に進呈しようとしていたのだという噂もありますよね」
ケーディスはジョージ・ケナンにトドメの言葉を言われ、民政局を辞任しました。そしてその辞任の日は昭和24年5月3日。GHQ憲法記念日にあわせたのです。
ケーディス辞任の経緯を聞いたR.アイケルバーガー中将のコメント
「彼は日本人に手本を示した。空虚な理想主義者は奢りと腐敗におぼれて自滅するという手本だ」
参考文献
講談社文庫「占領を背負った男」北康利(著)
ワック出版「歴史通」2010.01『戦争違反罪人という烙印』田中英道
ワック出版「歴史通」2010.11『なぜ誕生し、いかに葬られたか』渡部昇一
(「かつて日本は美しかった」より引用)
「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9