朝日新聞と渡部昇一の40年戦争

On 2017年4月5日

 

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1.『朝日新聞』の「未必の故意による殺人」

 

 一昔前の朝日新聞の横暴さを表す、こんな事件があった。

 

 一九八〇年九月には、同志社大学のー教授が『朝日新聞』等の報道のために自殺するという事件が起きていました。教授が嘱託医をしている会社の女子従業員が、催眠療法による治療中に教授にイタズラされたと新聞社に訴えたのです。

 

 もし破廉恥行為があったというならば、警察に訴え、裁判の場で教授にも弁明の機会を与え、裁判官が事の真偽を判定するのが法治国家というものです。

 ところが少女はその手続きをせずに記者会見を行ない、記者たちはそれを大活字で、しかも実名で報道したのです。教育関係者ならば、これで一巻の終わりです。教授は「死して潔白を証明する以外にない」と自殺しました。・・・

 この事件は、『朝日新聞』の「未必の故意による殺人」と言つてよいと思います。

 新聞が「第4の権力」と言われるのも、こうした力からである。だからこそ新聞記者は徹底的な事実の検証が求められるのだが、特定の思想を説くのに性急な朝日には事実追求の姿勢が欠けている、とは、朝日新聞の元記者の方々が語るとおりである。

 このような朝日の横暴に単騎立ち向かってきたのが、渡部昇一氏だった。今日は多くの論客が立ち上がって朝日の虚報・誤報に集中砲火を浴びせるようになったが、こうした状況は、渡部昇一氏の40年来の戦いが切り拓いてきたものである。

 氏が朝日を批判してきた内容を見ると、真の報道機関とはどのようにあるべきかが、よく分かる。

 

2.朝日新聞との戦いから始まった渡部氏の言論人としての経歴

「言論人としての私の経歴は、『朝日新聞との戦い』から始まったのです」と氏は書き出す。

 欧州留学から帰国して、ある会合で文藝春秋社の月刊誌『諸君!」の編集長・安藤満氏と知り合い、杉村楚人冠(そじんかん)の『最近新聞紙学』の書評を依頼された。杉村楚人冠は明治時代に朝日新聞に勤め、外遊中に欧米の新聞事情を研究した人物である。

 しかし、読んで感心しているうちに、「ひるがえって、今の朝日新聞はどうしたのだろう」という疑問が湧いてきました。なぜなら、楚人冠がそこで「戒むべし」としていることばかりを朝日新聞はやっているという印象を受けたからです。

 原稿を書き始めると、筆が止まらなくなってしまい、二百字詰め原稿用紙70枚におよぶ朝日新聞批判になってしまった。安藤編集長は一読するなり「面白い!」と言って、『諸君!」昭和48(1973)年11月号の巻頭論文として掲載した。これが氏の論壇デビュー作となった。

 

3.「朝日新聞の宿痾(しゅくあ)」

 楚人冠の本には次のような一節がある。

 新聞記者が材料を集め、又は紙面を整うる時に、利害の打算をしたり、親疎の別を立つることは、最も戒むべき点である。故意に不実の事を捏造するのも罪悪であるが、公けにすべき事実を差し押えて公けにせぬのも罪悪たることは、相同じい。「いかなる大記者もニュースを差し押うることを得ず」(”No editor can suppress News”)という言葉がある。

 ちょうど、この「公けにすべき事実を差し押えて公けにせぬ」罪悪を犯したのが林彪事件報道だった。1971(昭和46)年、シナ共産党副主席・林彪が毛沢東暗殺を計画したが事前に発覚し、航空機で国外脱出したが、搭乗機がモンゴルで墜落し、死亡した。

 シナ政府はこの事件をひた隠しにしたが、その後2ヶ月近くも林彪がニュースに登場しなくなったため、何か重大な政変があったのではないか、との観測が世界中に広まった。

 朝日は当時、シナ政府から睨まれるような記事を控えることで、日本の新聞の中では唯一、北京に特派員を置いていた。この事件もシナの意向に沿って、政変の観測を否定し続け、8ヶ月後、毛沢東が直接、事件を語った後にようやく「これが林彪事件の真相」と題して発表したのである。

 当時の朝日の広岡社長は、朝日だけでも特派員を置いておくために「向こうのディメリットな部分が多少あっても目をつぶる」という趣旨の発言を社内でしたと伝えられていた。まさに「利害の打算」で、公にすべき事実を差し押さえたのである。

 逆に「故意に不実の事を捏造する」罪悪も、南京事件の「百人斬り」報道などで行われていた。その後の教科書誤報事件(後述)や「従軍慰安婦」報道も同様である。

「四十年戦争」の緒戦において、私は朝日新聞の宿痾(しゅくあ)を杉村楚人冠の原則に従って、すでに剔抉(てっけつ)していたと自負しています。

 

4.会った事もない相手との論争を捏造される

 この緒戦以降、朝日は氏を言論界から抹殺する機会を狙っていたようだ。その機会は氏が『週刊文春』昭和55(1980)年10月2日号に「神聖な義務」というエッセイを掲載した時にやってきた。

 作家の大西巨人氏の第一子、第二子が遺伝性の病気で、「一ヶ月の医療費1500万円の<生活保護家庭>大西巨人家の<神聖悲劇>」という週刊誌報道を呼んで、氏はカトリックの伝統的な立場から、こういう場合は第二子を生まないと決心するのが道徳的行為であるという趣旨の主張をした。

 このエッセイを見て、朝日の社会部記者が尋ねてきて、「どうしてこんなものを書いたのか」と詰問したうえ、「大西さんは反論を書くと言っているから、大変な論争になるかもしれませんよ」と脅す。その翌朝の朝日新聞の社会面で、大きな記事が出た。

 特大の活字で「大西巨人氏vs渡部昇一氏」という見出しが掲げられ、私と大西氏との間で劣悪遺伝の問題をめぐって論争が展開されたことになっていたのです。社会面の三分の一ぐらいのスぺースでした。そして見出しだけを読むと、私が「劣弱者を消してしまえ」と主張するヒトラー礼賛者であるかのような印象を与える紙面になっているのです。

 天下の『朝日新聞』の社会面で三分の一以上のスぺースを使って、大活字をふんだんにちりばめて報道されれば、誰だって大事件だと思うに違いありません。

 氏は会った事もない大西氏と論争したことにされて、しかもヒットラーばりの「劣弱者を消してしまえ」と発言したかのような記事を朝日は捏造したのである。

 氏はある知人から「朝日にいる友人から聞いたのですが、『朝日新聞』の編集部の壁には“渡部昇一はこの線で叩く”という意味の貼り紙がしてあるそうですよ。だから気をつけなさい」と忠告された。ここまでくると、報道機関というよりは、敵を叩くためのプロパガンダ機関である。

 

5.障害者団体と同和団体が授業妨害

 これを契機に、ある障害者団体と同和団体が、氏の上智大学での授業に押しかけてくるようになった。週6コマほどのすべての授業で妨害を受け、それが夏休み前後に4ヶ月も続いた。また、大学構内の目立つ場所に「渡部教授を批判する」という巨大な看板を立てた。

 彼らは渡部氏を「ヒットラー礼賛者」などと攻撃したが、学内では氏がナチズムもヒトラーも批判しており、かつカトリックとして妊娠中絶に反対していることも衆知の事実だった。

 結局、氏は発言の訂正や謝罪を一切することなく、この騒動を乗り切った。他の大学では、こうした場合に教師が辞職に追い込まれたり、大学に「思想改善のための講習費」などの名目で金銭を要求されるケースもあった。氏が発言の訂正も謝罪もなく乗り切ったのは希有なケースとして、他大学から上智大学に「対応方法を教えて欲しい」との問合せがあった。

 しかし学校関係からの氏への講演依頼は一切なくなった。「朝日新聞に叩かれた人間だから、招くのはやめておこう」ということだったようだ。学校関係者の間で、いかに朝日の影響力が大きいか、氏は改めて思い知った。

 

6.「教科書誤報問題」

 翌昭和57(1982)年には、渡部氏は「教科書誤報問題」で朝日と戦った。これは前年の歴史教科書検定で、文部省が「侵略」を「進出」と改めさせた、という報道が6月26日に一斉にされたのが始まりだった。朝日は1面で「教科書さらに『戦前』復権へ」「『侵略』表現弱める」と報じた。

 さらに同日、北京支局発として「教科書検定問題に関する中国政府の申し入れ内容」を掲載した。さっそく、シナにご注進に及んだようだ。

 この事件の詳細は[f]で紹介したが、「侵略」を「進出」に書き換えさせた事実はなかった。7月30日には文部大臣が参議院文教委員会で「『侵略』を『進出』に書き改めた例はない」と明言したが、小さく議事要録のように報道されただけだった。

 渡部氏が8月22日にテレビで誤報である事を明らかにすると、8月25日朝刊で朝日は訂正記事を出した。訂正と言っても五段抜きの見出しで「『侵略』抑制、30年代から一貫--教科書検定」と題して、全315行のうち、わずか15行で、文部省の7月30日の発言は事実と認めただけだった。よほど注意して読まないと、訂正記事とは気がつかない。

 朝日は7月30日の文相発言を事実と知っていたのに、約1ヶ月素知らぬ顔をしていた。その間、シナ政府はさんざん日本政府に抗議をしていたのである。さらに誤報は海外にまで伝わって、日本政府がさも偏向教育をしているかのように報道された。

 

7.「まともな議論のできる記者を養成してもらいたい」

 昭和58(1983)年10月12日、田中角栄・前首相(当時)がロッキード社から多額のリベートを受けとったという容疑に関して、東京地裁は有罪判決を下し、角栄は即日控訴した。これに関して朝日新聞は元最高裁長官のインタビュー記事を載せ、「一審の重み知れ 居座りは司法軽視 逆転無罪あり得ない」との見出しをつけた。

 元最高裁長官ともあろう人が、三審制を否定し、当人の裁判を受ける権利を否定している事に、氏は「そんなことを言えば最高裁の自殺じゃないか」と思った。しかも調べて見ると、東京地裁では贈賄したロッキード社側の最重要証人に免責特権を与えて調書をとり、しかも弁護側の反対尋問を拒否している。

 日本では免責を与えて、証言をとるという事は法律上許されていない。しかも、その証人に反対尋問をさせない、ということは、何を言っても罪に問われないし、弁護側はその嘘を暴くチャンスもない、という事だ。氏は、東京裁判でさえ反対尋問は許されていたことから、「『角栄裁判』は束京裁判以上の暗黒裁判だ!」という論文を『諸君』に発表した。

 これを批判したのが、『朝日ジャーナル』での「“知的ピエロ”渡部昇一の歪んだ角栄擁護論」という匿名批評による個人攻撃だった。朝日は角栄を有罪にしたいがために、元最高裁長官の居座りは司法軽視」などという三審制無視のインタビューを載せ、不法な裁判手続きを批判した渡部氏に個人攻撃を加えたのである。渡部氏は『文藝春秋』でこう反撃した。

「『朝日新聞』ぐらいは、嗤(わら)うべき人身攻撃でなく、まともな議論のできる記者を養成してもらいたい。そして私の角栄裁判批判の内容に立ち入った批判をしてもらいたいものである。

そうすれば、私の書いていることは角栄擁護論ではなく、日本の「司法の犯罪」に関するものであって、「こんな裁判が判例になったのではたまったものでない」という、国民だれにもかかわりある立場からのべたものであることはすぐわかるであろう」

 最高裁では角栄は他の証拠により有罪とされたものの、免責特権で得た、しかも反対尋問を拒否した調書の証拠能力は否定された。氏の指摘の正しさは最高裁でも認められたのである。

 

8.「利害の打算をしたり、親疎の別を立つる」プロパガンダ機関

 渡部氏の朝日との戦いは「南京大虐殺」や「従軍慰安婦問題」と続いていく。この頃には渡部氏の戦いに呼応して、多くの言論人が朝日新聞批判に立ち上がっていった。

 氏が40年間戦って来た朝日の欠陥は楚人冠の指摘した「故意に不実の事を捏造するのも罪悪であるが、公けにすべき事実を差し押えて公けにせぬのも罪悪」という点に尽きる。

 そして、それは共産主義という自らの理想への「利害の打算」をし「親疎の別を立つる」という所から来る。こういう「利害」や「親疎」は、特定の思想を押し売りしようという「私心」である。私心を持ったマスコミはプロパガンダ機関である。真の報道機関は、そのような私心を離れて、事実を追求し報道しなければならない。

 渡部氏が最初の論文で紹介した楚人冠の言葉こそ、報道機関とプロパガンダ機関を分かつ原則である。朝日のプロパガンダ機関としての宿痾は、今も変わっていない。こうしたプロパガンダ機関から自由民主主義社会を守るために、渡部氏の40年戦争は今後も心ある国民が引き継いでいかなければならない。

 

(『国際派日本人養成講座』伊勢雅臣より引用)

 

 

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