だまし討ちだった「村山談話」
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村山内閣の誕生は1994年6月30日である。官房長官は社会党衆議院議員の五十嵐広三氏、衆議院議長は土井たか子氏、外相に河野洋平氏、外務省アジア局長には川島裕氏、中国駐在大使は国廣道彦氏という布陣だ。
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「村山談話」には出自の卑しさが目立つ
それは同談話の閣議決定に至る過程に明らかだ。まず談話の前段として95年6月9日の「歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議案」があった。
「謝罪決議」と通称される同決議は「我が国が過去に行った(数々の植民地支配や侵略)行為」に「深い反省の念を表明」する内容だ。
社会党出身の総理大臣が謝罪決議採択を目指していることは永田町で周知の事実となり、自民党内からも野党側からも、それに反対する動きが連動しておきていた。
大原議員は285名の国会議員の支持を得て、全国で506万人を超える決議反対の署名を集めた。大原氏らの動きに賛同した議員の多さからみて、村山首相の目論見に対する反対が、与野党を問わず幅広い広がりをみせていたことがわかる。 一方、決議推進派は自治労の組織を基盤として運動を展開し、31万人分の署名を集めた。
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506万 対 31万、勝敗は明らかだった。
だまし討ちの議会決議
官報によると、同決議採択のための衆議院本会議の開会は95年6月9日午後7時53分、山崎拓氏らが提出してあっという間に可決、7時59分に散会となった。この間、わずか6分である。
この間の経緯を、当時、衆議院議員であった西村眞悟氏が『諸君!』05年7月号に次のように書いた。
自社さ政権の下で国会における謝罪決議が構想され始めたが、反対の声は超党派で強まり、決議案が上程されても否決されることが明白になった。
すると6月9日の金曜日、「本日は本会議なし、各議員は選挙区に帰られたし」との通知が衆議院内にまわされ、反対派の議員らは選挙区に戻った。
そのすきを狙ったかのように、土井たか子衆院議長が金曜日の午後8時近くという遅い時間に本会議開会のベルを押した。
結果として265人の議員が欠席、議員総数509人の半数以下の230人の賛成で決議案は可決。だが、参議院は採決を見送った。
どう見てもこれはだまし討ちだ。精神の卑しさを強調するゆえんである。
この通知の真贋は未だに判明していないそうだ。しかし、議員心理をよく突いたものではあった。
西村氏が当時の様子を詳細に書く。
「議員は土曜日と日曜日に選挙区での予定を抱えているものであり、早く戻りたいからである。 こうして多くの議員が国会を離れ、選挙区に戻っていった。永田町から、村山首相の決議案に反対する議員がほぼいなくなった午後8時近く、正確には7時53分、土井たか子衆議院議長が、突然、本会議開催のベルを押したのだ。 西村氏は新幹線のなかで本会議開会の緊急通知を受けた。名古屋で飛び降りてすぐさま東京へ取って返した。無論、本会議で反対する為だった」
しかし、先述のように、本会議はわずか6分で終わった。西村氏の帰京は間に合うべくもない。
官報が告げるわずか6分間という時間の短さは、村山首相らが何かに追われるように、事を急いだであろう姿を想像させる。
姑息で卑怯な手法を用いた村山首相らに怒った西村氏は、「自社連立は、夜影に乗じて謝罪決議を窃取した」という国会報告書を作成した。
これが、欠席議員265名という異常な議場の風景の背景だった。
さすがに参議院では、同議決を採決さえしなかった。
一般の半数以下の賛成、しかも「だまし討ち」の手法でようやく可決した決議は、どうみても権威を欠いていた。
国会決議は通常、全会一致で、衆参両院で採決されるのが慣例である。
とはいっても全会一致でなく、多数決によるものもある。しかし、衆議院での賛成者が半数に達せず、かつ、参議院でも見送られた事例は前代未聞であると、大原氏は指摘する。
折角の決議であったが、当然、評価は非常に低かった。左右双方、いずれからも評価されず、決議は地に落ちたも同然だった。
村山氏らはおそらく、そのとき心に期したのであろう。「次は必ず成功させる」と。
せっかくの決議なのに権威もなく、評価もされない。
そこで村山首相らは、次に総理大臣としての談話を出す道を選んだ。
村山談話、出現
いい加減な事前説明
8月15日の村山談話はこうした”苦い体験”を下敷きにして、失敗しないように練り上げられていったと思われる。
当時の報道からも、村山首相らがいかに談話の実現に賭けていたかが見えてくる。
野坂官房長官(95年8月8日の改造内閣で就任)は、村山談話の閣議決定を波乱なく終えるよう、「有力閣僚や与党幹部に内容は詳しく説明せずに『ただただ、頭を下げて』(政府首脳)根回しにまわった」と報じられている。(産経95年8月16日)
同紙はまた、野坂官房長官が、内容を伏せたまま、ひたすら頭を下げて根回しをする一方で、もし、反対する閣僚が出てくれば「お引き取り願うだけ」つまり、辞職してもらうだけだと強気でもあったと報じた。
当時、談話の内容はごく少数の人間が相談しつつ作成したこと、関わった人物の一人は当時内閣外政審議室長の矢野作太郎氏だったとみられること、自民党内で事前に案文を見せられたのは橋本竜太郎氏や野中広務氏らごく一部に限られていたことも報じられた。
95年8月15日、村山総理は、左翼系学者や谷野作太郎外政審議室長ら少数の官邸スタッフらと練り上げた談話を閣議に持ち込み、古川貞二郎官房副長官が読み上げた。
「閣議室は水を打ったように静まり返った」と報じられた。
事前説明なしで突然出された談話に、閣僚は誰ひとり反論していない。
その日の閣議の様子を、その日から約10年後、産経新聞は以下のように振りかえった。
「8月15日午前。閣議室の楕円形のテーブルに着席した閣僚を前に、野坂は『副長官が談話を読み上げますので謹んで聞いてください』と宣言した。古川貞次郎は下っ腹に力を入れて読み上げ、閣議室は水を打ったように静まり返った。野坂が、『意見のある方は言ってください』と二度、発言を促したが、誰も発言しなかった」
言うまでもなく、古川氏はその後も官房副長官を長く務め、皇室典範改正で女系天皇制容認の方向づけをした人物の一人である。
その古川氏が野坂氏の説明につづいて「下っ腹に力を入れて」村山談話を読み上げると、閣議の場は「水を打ったように静かになった」というのだ。
自民党にとってこのことこそが痛恨の一事だ。
細川護煕政権の誕生で下野し、理念の全く異なる社会党の、首相たる資格の片鱗(へんりん)さえ備えていない人物を首相に据える禁じ手を以て、自民党はようやく政権を取り戻していた。自信喪失のただ中で、自民党は真っ当な価値判断を下し得なかったのだろう。
あるいは、事前説明なしで突然出された談話に、閣僚の多くは心構えが出来ていなかったのであろう。文字に書かれた文書を一言ずつなぞりながら、その一言一言がどのような意味を持つのかを吟味することなしに、書面も無く耳から聴いた言葉だけで直ちに問題点を把握することが、あるいは難しかったのかもしれない。
櫻井よしこ氏は、こうした村山談話の「卑しさ」を踏まえた上で、こう結論づけている。
踏襲必要ない村山村山談話にとらわれることは、自社さ連立政権当時の、異常なる政権の揺らぎの中に没し続けることだ。そんな地平に日本の未来はないだろう。
誠実で誇りある歴史認識を、新たに打ち立てることが、次期首相の課題である。
■引用■【櫻井よしこ 小泉首相に申す】 (産経新聞「談話」H18.09.14)
「正しい日本の歴史」 (目次)
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