元陸軍中尉の思い

On 2015年8月17日

 

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誰よりも天皇陛下に参っていただきたい

 

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「あのときは、みんな『死んだら靖国神社に祀(まつ)られる』と信じて死んでいったとです」

昭和12年の日中戦争ぼっ発直後から、ブーゲンビル島(パプアニューギニア)で終戦を迎えるまで、間近で戦闘を見てきた元陸軍獣医中尉の城光宣(じょうこう せん)(99)は静かに振り返った。

今も脳裏に、無数の砲弾が飛び交う中で命をかえりみず敵に向かって進む戦友の姿が浮かぶ。

「自分の死後、靖国に祀られ、国が家族の生活を保障してくれると安心して、国や国民のためにと死んでいったとです」

 

靖国は本来、純粋な戦没者への慰霊・追悼(ついとう)の場であるはずだ。

しかし、政治・外交問題として喧噪(けんそう)の渦中に置かれ天皇陛下のご親拝も長くかなっていない。

 

城は嘆くように語った。

「戦没者は『靖国で会おう』といって死んでいった。あそこに魂があっとです。

『天皇陛下万歳』といって死んでいった兵隊もおっとですよ。本当は誰よりも天皇陛下に参って頂きたい」

 

昭和天皇は昭和20年11月以降、計8回親拝されたが、50年11月を最後に途絶えた。皇太子時代に4回参拝した天皇陛下も即位後はされていない。

 

平成9~16年に宮司を務めた湯沢貞(ただし)(85)は宮司時代、皇居の勤労奉仕に参加した靖国の神職らが陛下から「御霊についてよろしく頼みます」とお言葉を賜ったことを明かし「靖国を気にかけてくださっていると一同感動した」と語る。

 

米国は「戦死者との約束」として、未だに国の専門機関が遺骨を収集し、慰霊の誠をささげる。

だが、これまでの日本政府は遺骨収拾について消極的だった。国民の多くも遺骨の存在を知らず、背を向けてきた。

そこに、戦勝国と敗戦国の違いはないはずだ。

遺骨が戻らないならば、せめて慰霊を続ける。それが「国のため」と尊い命を引き替えにしてきた戦没者との約束ではないのか。

その時に忘れてはならないのは戦没者の思いだ。兵士の多くは「靖国の社頭で会おう」と誓い合い戦地に向かった。靖国神社は戦没者や遺族のみならず、日本人にとってやはり特別の場所なのだ。

 

靖国は国が護持してきた。靖国に祀られることは国に殉ずることであり、国民として最大の栄誉でもあった。かつてそういう時代があり、そうであったから、『日本を守るため』に遠い戦地で死ぬこともいとわずに戦えた。「靖国に帰れる」と信じて。

 

時代の変遷に関わらず、戦没者慰霊の精神は本来、国民一人一人が考えるべきものだ。今こそ「日本人の心」が問われている。

  (H27.8.16 産経新聞より抜粋改変)

 

 

天皇陛下ご親拝の記録

1945〔昭和20〕年  8月20日   昭和天皇
1945〔昭和20〕年11月     「臨時大招魂祭」昭和天皇
1952〔昭和27〕年  4月10日    昭和天皇と皇后
1954〔昭和29〕年10月19日   「創立八十五周年」昭和天皇と皇后
1957〔昭和32〕年  4月23日    昭和天皇と皇后
1959〔昭和34〕年  4月8日   「創立九十周年」昭和天皇と皇后
1964〔昭和39〕年  8月15日   「全国戦没者追悼式」昭和天皇と皇后
1965〔昭和40〕年10月19日   「臨時大祭」昭和天皇
1969〔昭和44〕年10月20日   「御創立百年記念大祭」昭和天皇と皇后
1975〔昭和50〕年11月21日 「大東亜戦争終結三十周年」昭和天皇と皇后

 

靖国

昭和44年10月20日、御創立百年記念大祭に親拝

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