戦友の思いを伝えよう
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『靖国の戦友に遅れはとらじとて 我も散らなむ沖縄の沖』
出撃を前にこの句を書いた板津忠正さんは、民間のパイロットを目指していたが、戦況がひっ迫すると大刀洗飛行学校(福岡県)などを経て特攻要因となり、
昭和20年5月28日、第213振武隊の一員として12人で知覧を出撃、沖縄を目指した。
だが、途中でエンジントラブルを起こし、徳之島に不時着。知覧に戻り、その後、2度にわたって出撃命令を受けたが、天候が悪く、いずれも出撃が中止された。
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「自分が死ななければ日本は本当に救われないのだと、信じている者もたくさんいた。血書まで書いて志願した者もいたぐらいだ。私も『国のため、肉親のために死ねる』という満足感があった。出撃できることに感激していた」
板津さんは思いのたけを吐き出すと、こう続けた。
「結果として生き延びてしまった。水杯を交わし必ず敵艦を轟沈(ごうちん)して靖国神社の鳥居の下で待ち合わせてから入ろう、と約束したのに、なぜ自分だけ生き延びてしまったのか、と悔やむ日が続いた。生き延びたという負い目は死ぬまで消えません」
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長男の昌利さん(58)は中学生の時、初めて父親に特攻について尋ねた。板津さんはこう答えた。
「250㌔爆弾を機体に抱いて敵船に突っ込んでいくんだよ。お父さんたちがやらないと、日本が負けてしまうという思いだけで、とにかく、お国のため、家族のためにやるんだという思いだけで、怖いとかは全然感じなかった」
昌利さんは父親の思いをこう推し量る。
「知覧に戻った後、戦闘指揮所に出撃させてくれと日参したと話していた。自分だけが死ねなかった言う負い目が非常に強かったことだけは間違いない」
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生き延びたという呵責(かしゃく)に追い詰められている板津さんの人生を変えたのは、知覧で食堂を営み、特攻隊員を見送り続けた鳥濱トメさん(平成4年死去)の一言だった。
「あなたが生かされたのは、何か意味があって生かされたんだよ」
この一言が板津さんに生きる事への使命感を与えた。
復員した板津さんは、愛知、長野、石川県の遺族を訪ねている。自分が生き残ったことを詫びるためだった。その後、名古屋市役所に勤めたが、全国の遺族に特攻隊の真実を伝えながら遺品や遺書を集めようと思い立つ。
戦後、変化した社会風潮に危機感を持ったからだ。
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「特攻に対して『犬死だった』『無駄死にだった』と偏見が多くなった。中には『殴られるのが嫌で志願した』と特攻隊員の心と死を冒とくするようなことを平気で言うような人もいた。
それが許せなかった。
特攻隊員の死は無駄ではなかったんですよ。風化させてはいけない、後世に伝えなければいけない、と気づいた」
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「どうしたら平和になるのかは教科書には書いてはいない。昔、戦争があり、特攻があり、その上で今の平和の世の中がある。過ちを繰り返してはならない。若い方がきちんと理解した上で、次の世代、その次の世代へと伝えないといけない」
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ある海上自衛隊幹部は、
「戦没した英霊は、平泉で仁王立ちになって義経を守った弁慶のような存在。今も日本を守ってくれている。『忘れない』『感謝します』『努力します』『安らかにお眠り下さい』が基本だ」と念を押した上で、こう警鐘を鳴らす。
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「敗戦を客観的に分析し、評価し、教訓を学び取っていかないといけない。70年はそういう年にしないといけないが、していない。していないことにも気づいていない。亡くなった人の思いをいかして生きていくのが我々の責務だ」
(産経新聞H27.8.1より抜粋)
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戦後、日本は、「官僚の責任逃れ体質」(※軍も官僚組織である)が正されることは無く、責任逃れ体質ゆえに、悲惨極まりない戦争経過となってしまった大東亜戦争の(戦略・戦術を含めた)総括をまったくしてこなかった。
そこにGHQによって植え込まれた「誤った歴史と自虐史観」が修正されず、今でも大きくなり続けている原因がある。
戦後70年、全く反省をしてこなかった官僚組織は、相も変わらず外交交渉でブザマな「負け戦」ばかりを演じて国益を損ね続け、平然としている。
国会議員と外務省の「祖国のことを全く思わない」低レベルな醜態に、最大の原因がある。
「外交とは、武器を持たない戦争である」
お奨めのサイト
いろんな見方あっていい だが忘れないでほしい
http://www.nishinippon.co.jp/special/postwar/2014/vol02/evidence/e01.shtml
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「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9
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