満州国の概要
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いま、支那の東北省となっているところは、かつての満州帝国でした。
その満州のご出身の方に、鳴霞(めいか)さんとおっしゃる方がいます。
「月刊中国」の日本語版の主編をしておいでの方です。
彼女は、女真族の出身です。
つまり、生粋の満州人です。
そして彼女の親は彼女に「ここが満州国だった時代、家に鍵なんてかけたことなんてなかったんだよ」と何度も話してくれたそうです。
満州国は、日本と同じだったのです。
犯罪がない。
もうすこし詳しく言うと、支那の清王朝時代、清國は満州を「聖地」として、漢民族の立ち入りを禁じました。
そこは決して豊かな土地ではなく、人々は決して豊かとはいえなかったけれど、泥棒も強盗もいない安全で安心な暮らしができた土地でした。
ところがそこが安全であることから、清朝末期、清國の統制力が弱まると、満州に漢人たちが次々と入植を始めました。
漢族の土地は、強盗団が跋扈して、安心して暮らせなかったのです。
おかげで満州の治安も酷い状態になりました。
そして日本がバックアップして満州国が出来上がりました。
その満州国は、五族の暮らす土地でしたけれど、満州が満州国であった時代は、そこは鳴霞さんがおっしゃるとおり、日本と同じく、家に鍵をかける必要もないほど、安全で安心に暮らせる国だったのです。
だから街が発展しました。
満州国は、日本陸軍の傀儡政権であったという人がいます。
なるほど東京裁判では、そのように定義づけられています。
けれど、満州国の皇帝は、もともと清國の皇帝であった人です。
もともと女真族が支那大陸に攻め込み、北京に清王朝を開いたのは、度重なる漢族による満州の地への進出が、彼らにとって大迷惑だったことによります。
そのため満州にいた女真族は団結し、漢族の住むエリアに攻め込み、その地を統治するために北京に紫禁城を築いています。
そして清王朝時代を通じて、紫禁城内は漢族の立ち入りは禁止でした。
中に入ることが許されたのは、科挙の試験に合格したなど、きわめて特殊なケースに限られました。
そして漢族が、何かの事情で紫禁城内に侵入すれば、理由の如何を問わず、逮捕され、城外で漢族たちが居並ぶ町中において刑が執行されました。
そのときに行われた刑が「凌遅刑」です。
人間を裸にして柱にくくりつけ、両方の乳房、二の腕の肉、腿の肉などを順番に削いでいく。
そして三日三晩かけて苦しませながら殺害するというきわめて残酷な刑です。
さらに紫禁城内で話されてた言語は、漢族の話す支那語(北京語)ではありません。
城内での会話も、筆記も、すべて女真語(満州語)が用いられました。
ですから、ものすごく簡単に要約すると、清王朝時代というのは、漢族の土地や人民が、女真族によって植民地にされた時代、ということができます。
外来王朝なのです。
その清王朝の末期、明治44(1911)年に辛亥革命が起こりました。
教科書によっては、これによって清王朝が滅んで中華民国が成立したと誤認するようなことを書いているものがありますが、全然違います。
なるほど中華民国史からみれば、大正元(1919)年、清國宣統帝は退位し、袁世凱が組織する共和政府に権限移譲が行われています。
つまり、支那を代表する政権としては、清王朝から中華民国に、政権は交替したわけです。
交替はしましたが、だからといって清王朝がこの時点で消滅したわけではなく、この年以降も、毎年の恒例行事となっているチベット族や、モンゴル族、あるいはウイグル族など周辺国による朝貢は、毎年継続しています。
つまり、清王朝は、そのまま存続していたわけです。
単に、政権が変わっただけであったわけです。
ところが中華民国政権は、その後、支那共産党と二つに分裂し、互いに軍事力を駆使して、支那全土で凄惨な殺し合いをするようになってしまいました。
そこで、内乱で危険の多い北京から、本来の清王朝の故郷である満州を切り離し、そこに清國皇帝を招いて満州帝国を日本が援助することで建国したわけです。
新たに建国された満州国における皇帝と、清王朝(大清帝国)では、名称は同じ「皇帝」でも、皇帝の位置づけは全く異なるものでした。
清王朝(大清帝国)の皇帝は、政治の三権(行政権、司法権、立法権、国家緊急権(軍事権))のすべての権限を保持していました。
けれど、満州国皇帝は、人物は同じ愛新覚羅溥儀ですけれど、日本の天皇と同じく、政治の大権は保持しません。
国家の最高権威として存在し、政治権力は内閣に委ねるという形がとられました。
そして満州国の住民は、満州国皇帝によって「おおみたから」とされました。
つまり、満州国は、日本と同じ統治の方法を取り入れたのです。
これによって満州に住む全ての民衆は、政治権力者と人として対等な存在となりました。
つまり、人間としての尊厳を誰もが認められるという体制になったのです。
そして高いレベルの教育、高度に成長した経済によって、人々は、家に鍵などかけなくても、誰も泥棒になんて入らない、日本と同じように安心し、安全に暮らせる国家を築いたのです。
ところがこれを妬んだのが支那やロシアの共産主義者たちでした。
彼らの思考では、共産主義革命によってのみ、人類の至高の幸福と安全で安心な生活が短期間に築かれるはずでした。
けれど、共産主義者たちが百年経っても築けず、混乱と人殺しが相次ぐ殺戮が繰り返されるばかりの共産主義圏に対し、満州は、またたくまに都市インフラが整い、人々が安心して安全に暮らせる社会を築いてしまったのです。
つまり、共産主義者たちにとっては、満州国の平和と安定は、すなわち共産主義の誤りを見事に証明するものとなってしまったのです。
ですから共産主義者たちは、満州にスパイを送り込み、内部統治の撹乱工作を始めました。
満州国内をアメーバのように走る満州鉄道は、こうした共産主義者達による線路妨害工作が、年間30万件です。
そして尼港事件が起こりました。
およそ人類社会において、人類が希求し続けていることは、平和であり安全に安心して暮らせる社会です。
けれど、そういう社会であればあるほど、それを壊し、奪い、意図して混乱を誘う連中がいるのです。
それが共産主義者です。
そしていま、その共産主義国である中共が、軍事力を拡張させ、露骨に近隣諸国の領土や領海を奪いに来ているわけです。
南シナ海、尖閣諸島、小笠原諸島の珊瑚、あるいは日本国内における用地の買収など、彼らの工作は、ひたすら近隣諸国の平和と安定を脅かすものです。
(ねずさんの ひとりごと より転載)
かつての日本人の素晴らしさと、戦後、白人たちはどれほど獰猛で残虐であったのかの片鱗が分かる、お奨めのサイト
「二十二名の私たちが、自分の手で生命を断ちますこと、軍医部長はじめ婦長にもさぞかしご迷惑のことと、深くお詫びを申し上げます。私たちは、敗れたとはいえ、かつての敵国人に犯されるよりは死を選びます。たとえ生命はなくなりましても、私どもの魂は永久に満州の地に止まり、日本が再びこの地に帰ってくる時、ご案内をいたします。その意味からも、私どものなきがらは、土葬にして、この満州の土にしてください。」
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