日韓併合前の韓国
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梁 啓超 の朝鮮評
清朝末期以降に活躍した清の歴史家・ジャーナリストは、当時の朝鮮をどう見ていたか?
「朝鮮人は空論を好み、激情にして怒りっぽく、ややもすれば命知らずで、すぐ立ち上がる。
朝鮮人は将来のことはほとんど考えない。庶民は腹いっぱいになれば、すぐ木陰で終日清談にふけり、明日のことはすっかり忘れてしまう。
高官も今日の権勢さえあれば明日は亡国となっても気にしない」
遅い朝食後に農作業が始まるが、どんな仕事でも昼前には終わり、再開は決まって翌朝である。
昼食を済ませると、男達は昼寝をするか、あるいは街頭に繰り出し、長いキセルをくわえながら互いの間で、あるいは通行人と話を交わしつつ夕食まで時間を過ごす。
驚き!? 笑える!? 韓国の自称「先端技術力」
朴大統領は「韓国は優れた創造DNAを持った民族。韓国は世界で最も短い期間に100万号特許登録を実現した」と豪語している。
ところが、日本の室町時代、その“すぐれたDNA”を持っているはずの韓国には、寸法通りに木材を切る技術すらなかった。
『朝鮮王朝実録』という朝鮮の資料に、1429年に実施された第1回朝鮮通信使の報告が載っている。 その資料の中で通信使は、日本の優れた技術に驚嘆したとある。
特に朝鮮通信使は驚嘆したのは、揚水水車の技術だった。 通常水車といえば足踏み式。 ところが当時の日本では、流れる水を原動力として水を自動的に組み上げるタイプの水車(揚水水車)を完成させていた。
通信使は配下の学生に作り方を学ばせ、国王には模型まで提出し、揚水水車の導入を進言し受け入れられ、次の王、その次の王の時代にも揚水水車を作ろうとしたが、最後まで作ることができなかった。
最初の通信使が来て334年が経った江戸時代、11回目となる朝鮮通信使が日本にやってきて驚嘆したのは、またもや、「淀川にあった日本の水車であった」と報告書にはある。
300年以上経っても、彼らの技術では揚水水車ひとつ作れなかったのである。
作れなかったのは揚水水車だけではない。
日本が韓国を併合するまで、朝鮮では水が漏れない桶や樽も作れなかった。 井戸すらない朝鮮では、女たちは重たい甕(かめ)を頭に載せて、泥と糞尿が混ざって黒くよどんだドブ川(小川)から「飲み水」を運んだ。
当然、丸い車輪など作ることなど出来ず、両班(特権階級)の乗り物は白丁(奴隷)が担いで運んだ。
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