シベリア出兵の真実
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日本の歴史教科書には、日本のシベリア出兵について、次のように書いてあります。
『日本がシベリアでの勢力拡大を狙い、連合国間の協定に違反する大兵を派遣し、撤退したのも最後になった』
(中学社会 歴史 教育出版)
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その真実の歴史は、どうだったのでしょうか?
上にある写真には、「大正9年5月24日午後12時 忘ルナ」と書かれています。
何があったのか。
日本人として、絶対に忘れてならない歴史がここにある。
これが書かれたのは、いまではロシアの「ニコライエフスク」となっている街です。 ニコライエフスクは、支那の黒龍江(アムール川)の河口から20キロの地点にある街で、ロシアの太平洋側、樺太の北端に近いところにあります。
昔はここはロシアやソ連ではなく、支那女真族(満州族)の土地で、清朝政府が漢民族ではなく、漢民族(支那人)からみた蕃族の一部である女真族、つまり清朝政府の聖地となっていた土地です。
ここには、大正9(1920)年当時、日本人700名を含む1万7千人あまりが住んでいました。
内訳は次の通りです。
日本居留民 約700名 白系ロシア人約1万5000名 中国人約1000名 朝鮮人約500名
日本人700名というのは、日本陸軍の2個歩兵中隊の約260名、その他440名は軍属と婦女子です。
なぜそこに日本陸軍が駐屯していたかには、ちゃんとした事情があります。
大正6(1917)年、帝政ロシアでは、レーニンに指揮されたロシア革命が起こっています。 ロシア革命というと、なにやらロシアがレーニン達共産主義者によって、ただちにソヴィエと連邦共和国が成立し、ロシア全体が夢と希望に満ちた共産主義国家になったかのように、いまどきの教科書などは記述していますが、これは事実に反します。
なるほどレーニンは、ロシア皇帝を引きずり降ろし、政権を奪いました。 けれどロシア革命が行われた当時は、世界中どこの国の政府も、レーニンのこの新ソ連政府を国家として承認していません。 むしろテロによる過激派政府として警戒していた、というのが実情です。
さらにやっかいなのはロシア国内では、この革命によって各地がいわゆる「無政府状態」となったということで、このことは、多数の囚人が送られていたシベリアでは、一層やっかいな問題を起こしていたのです。
当時のシベリアでは、「シベリア送り」となっていた多数の凶悪犯罪者らが牢から出され、共産パルチザンとなって、残虐な悪行の限りを尽くすようになったのです。
牢から出されただけでは、食料も武器もありません。 けれど凶悪犯だった彼らは、民家を襲い、食べ物や財物を奪い、さらに社会の破壊と混乱を目的とする共産主義者らから、豊富な武器や弾薬を無償で提供されました。
キチガイに刃物とはよく言ったもので、もともと粗暴で凶悪な犯罪者だった彼らは、集団で徒党を組み、武器を手にし、共産パルチザン(組織化されたゲリラ集団)となって、シベリア各地を荒し回ったのです。 そして彼らは、タテマエとして外国勢力追放を叫び、各地で同国人だけでなく、外国人に対して襲撃事件を起こしていた。
これに対し、ロシア革命成立当時は、それでもまだシベリア方面には保守派のロシア極東総督のロザノフ中将、コルチャック提督などがいて、彼らがこうした共産パルチザン化した凶悪犯たちや、革命派勢力などと戦ってくれていました。
また、外国人襲撃事件の多発から、英米日の3国は、これへの対抗のために、大正7(1918)年8月には、シベリアに国際共同歩調で出兵しています。
ところが翌大正8(1919)年になると、シベリア・オムスクにあったロシアの穏健派総督府が、武装共産パルチザンの攻撃を受けて崩壊してしまったのです。
ロシアの総督府あればこその、シベリア出兵です。
身の危険を感じた米英両国はシベリアから撤兵してしまう。
英米からしてみれば、自国とは、まさに「地球の反対側」にあるシベリアの田舎の出来事でしかないのです。 列強としての国際的責任、および共産主義革命への対抗上、やむなくシベリア出兵していただけで、ロシア総督府が壊滅してしまったのなら、自国の安全を図るため、兵を撤収し、自国の近辺に兵を配する。 英米両国にとっては、撤兵は、ある意味、当然の措置であったろうと思います。
けれど、日本にとっては、これはたいへんな事態です。 日本にしたら、友好で穏健な総督府があればこそ、極東の平和と日本居留民の安全が図られ、ひいては日本の安全を守れることにもなる。
ところがロシアのシベリア総督府が倒れたとなると、これは日本居留民ならびに日本本土防衛上からも、危険極まりない大問題となります。 なぜなら、地理上シベリアは、北海道・樺太に直結しているからです。
英米にロシア総督府を加えることで均衡を保っていた日本の防衛線は、こうして極度の戦力不足となってしまいます。 やむなく日本は、第12師団(約1万5000名)を、シベリア各地に分散して派遣した。 こうして、2個中隊260名が駐屯したのが、当時のニコライエフス(尼港)だった、というわけです。
事件は、大正9(1920)年1月29日に起こりました。 それまで雪深いこのニコライエフス(日本名「尼港」、以降尼港と書きます)は、共産パルチザンも鳴りをひそめ、比較的静かな状態だったのです。
そこへ突然現れたのが、ロシアのトリビーチンを首領とする約4000人の共産パルチザンです。 彼らは、いきなり尼港市街を包囲した。
守備していたのは、石川少佐率いる2個中隊(約260名)と、無線電信隊の40名、それと保守派のロシア兵(共産赤軍に対して白衛軍と呼ばれていたロシア兵)、合計約350名たらずです。 守備部隊のおよそ10倍以上もの組織化された暴徒が、街を取り囲んだのです。
共産パルチザンたちは、街を包囲した後、自分たちには敵意はない、食料の補給に強力をしてほしいだけだ、と称して、市内に入りこみます。 そして市内に入るやいなや、ロシア白衛軍の将兵を捕らえて、これを全員虐殺した。
あわせて一般市民の中から「有産智識階級」と思しき市民を虐殺し、家内の家財、財宝を奪った。 さらにユダヤ人を選び出し、婦女子にいたるまで、その全員を虐殺した。
共産パルチザンたちは、次々と白衛兵と白系市民を銃剣で突き刺すと、黒龍江の結氷を破ってつくった穴から、凍る流れに人々を放り込んだのです。 たった一晩で、尼港では、ロシア人とユダヤ人約2500人が、こうして惨殺されてしまいます。
翌日、その事実を知った尼港の穏健な石田副領事は、この暴虐行為に対して「厳重抗議」を行なった。 けれど共産パルチザンたちは、もとよりそんな「抗議」など受け入れません。 当たり前です。受け入れるくらいなら、最初から虐殺などしていない。 そしてパルチザンたちは、逆に日本側に武装解除を要求してきたのです。
日本兵が武装解除したら・・・・ そのあと何をされるかは火を見るよりも明らかです。 なにせその前日に、共産パルチザンたちは2500人もの人を殺戮しているのです。
現地の日本軍部隊は、日本に急を知らせる電文を打ちます。 けれど日本からの救援隊は、小樽から発進するのだけれど、真冬の寒い時期です。 海面が凍結していてすぐには動きようがない。
満州にいる他の部隊も、いちばん近い部隊で、陸路で到着するのに40日かかる。
尼港から日本人、ならびに日本軍駐屯隊が撤退しようにも、周囲は凍っているし、尼港の街自体が、共産パルチザンによって、蟻の這い出る隙もないほど包囲されている。 彼らは、撤退するにも撤退できなかったのです。
つまり、尼港の駐留部隊は、極寒のシベリアで、完全に孤立していたのです。
座して死を待つくらいなら、勇敢に戦って死のう。 白人たちの惨殺を目の当たりにしていた日本人部隊は、義勇隊を募り、110名で武装パルチザンの本拠を急襲しました。
けれども敵は、武装した4000人の大部隊です。 衆寡敵せず。 駐留部隊指揮官石川少佐以下多数がまたたくまに戦死してしまう。
義勇隊に参加しなかった軍人、軍属と女子供達600名は、義勇隊の奮戦の最中に、日本領事館に退避します。 けれど、領事館に集まることができたのは、わずか250名しかいなかった。
逃げ遅れた人達は、武装した共産パルチザンの手にかかります。 何が起こったのか。
事後の調査記録によると、共産パルチザンたちは、子供を見つけると2人で手足を持って石壁に叩きつけて殺し、女と見れば老若問わず強姦し、おもしろ半分に、両足を2頭の馬に結びつけて股を引き裂いて殺していたのです。 こうしてまたたく間に、義勇隊110名、逃遅れた日本人約100名が犠牲となった。
日本領事館に逃げ込んだ人達も、けっして安穏としていれたわけではありません。 領事館を襲おうとする共産パルチザンたちと、領事館に立てこもった日本軍との間で、戦闘はまる一昼夜続いた。
これは実際に傭兵となって世界の戦場を点々とした人から聞いた話なのですが、一般に、銃を撃ち合う戦闘というものは、ほんの数分で決着がつくことがほとんどなのだそうです。 銃撃戦が10分も続いたら、「今日の戦闘はむちゃくちゃ激しかったねえ」などと、後々まで話題になる。 それだけ銃撃戦というのは、両軍の戦闘員たちにものすごい集中力と緊張を強いる。 そういうものなのだそうです。
それが、尼港の日本領事館では、まる一昼夜、銃撃戦が続いた。 立てこもる日本人兵士たちの緊張感、後方で震えていた日本人婦女子たちの恐怖は、想像するにあまりあります。
一昼夜が経ち、朝日が射す頃には、領事館内の生存者は、わずか28名になっていたそうです。 弾薬も底をついてしまった。 残った一同は、まず子供を殺し、石田副領事、三宅海軍少佐以下全員が自決してしまいます。
こうして一夜が明けたとき、尼港に残る日本人は、河本中尉率いる別働隊と領事館に避難しなかった民間人121名となった。
抵抗を続ける日本軍強しとみた共産パルチザンは、策を弄します。 「山田旅団長の停戦命令」を偽造したのです。
河本中尉は、これは「怪しい」思った。
けれどもし、停戦命令に従わなかったことが、後日、国際上の問題となったら、これは取り返しがつきません。 それに、軍というものは、あくまでも上官の命令によって動くものです。 こうして河本中尉は、命令を受け入れた。
このとき生き残っていた121名の日本兵たちは、全員、武装解除のうえ投獄されます。 そして、食事もろくに与えてもらえないまま、日本の救援軍に対する防御陣地構築のための土方仕事に駆り出された。 零下30度の極寒の中で、凍てついた大地に土嚢を積み上げ、陣地の構築をしたのです。
そして、陣地構築が終わると、手のひらに太い針金を突き通して、後ろ手に縛られ、凍ったアドミラル河の氷の穴から、生きたまま共産軍によって次々と川に放り込まれ殺された。
春になって、ようやく旭川第7師団の多門支隊が現地の救援にやってきました。 そこで彼らは、地獄絵図を見た。
焼け野原と化した尼港には死臭が漂い、 「いったん撤退するが再び来て日本人を征服し尽くす。覚悟せよ」 と記した共産パルチザンの声明書が残されていた。
日本の救援部隊来着近しの報を受けた共産パルチザンは、5月14日に、支那人の妻妾となっていた14名の女性以外の生き残った日本人全員を殺害していたのです。
支那人の妻妾となっていた女性たちの証言から、1月29日から5月14日までの106日間の尼港の模様が明らかになりました。
何が起こっていたのか?
日本人たちは、生きたまま両目を抉り取られ、 5本の指をバラバラに切り落とされ、 死ぬまで何度も刺されていました。
そして金歯があるものは、生きたままあごから顔面を切り裂かれて、金歯を抜き取られた。 女は裸にされ凌辱された上で、股を裂かれ、乳房や陰部を抉り取られて殺された。 またこの事件で被害にあった男性は、両手を縛られ地上を引きずられたうえ、頭骨破砕、小脳露出、眼球突出して殺害されていた者、顔面破砕され、両眼を摘出して石をつめられて殺害された者、頭および顔の皮をはがれたうえ、眼球摘出、内臓露出、陰茎切除して殺害されるなどして12名が、凄惨な殺され方をした。
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斉南事件の被害者(24歳)の女性
両腕を帯で後手に縛られたうえ、顔面、胸部、乳房に刺創、助骨折損、陰部には棒をさしこまれ惨殺されていた。
なお、斉南事件の際の被害者の検視の模様のこの写真を、あろうことか、シナは「日本軍による人体実験の犠牲者」としてこの写真を国家を上げて捏造・宣伝。教科書に挿絵を挿入するのみか、なんと731部隊記念館では蝋人形にまでして展示しています。
獄舎の壁には、血痕、毛のついた皮膚などがこびりついていたそうです。 そして、その獄舎の中で発見されたのが、獄舎の壁に書かれた冒頭の写真です。
そこには、被害者の手によると思われる鉛筆書きで「大正9年5月24日午後12時を忘れるな」と書かれていた。
この尼港の事件は、「尼港事件」と呼ばれ、当時一部の報道はされたものの、あまりに残酷性が高いことから、報道規制が行われています。
注意していただきたいのは、この事件が起こった当時、日本とロシアは戦争状態ではありません。 もちろん日本とソビエト共産主義政権とも、敵対関係ではありません。
そもそも帝政ロシアは、ロシア革命によって崩壊しており、レーニン指揮下のソ連も、この時点ではまだ国際的に国家としてさえ、承認されていなかったのです。 つまり、この事件当時、ロシアという国家も、ソ連という国家も、国際的には存在しなかったのです。
そうしたいわば無政府状態の中で、極寒のシベリアで共産パルチザンが起こした事件が、この尼港事件です。 そして武装した共産パルチザンは、共産主義を標榜しているけれど、その実態は凶悪犯と夜盗の群れでもあった。
(ねずさんの独り言より)
「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9