日韓併合、真実の経緯
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伊藤博文を暗殺後の韓国
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「韓日合邦を要求する声明書」
日本は日清戦争を通じて韓国を独立させ、日露戦争でロシアに食われかけていた韓国を救ってくれた。
それでも韓国はこれをありがたく思うどころか、あの国にくっつき、この国にくっつきし、結局は外交権を奪われることになったが、これは我々が自ら招いたことである。
丁未条約を締結することになったのも、やはりハーグ事件をおこした我々に責任がある。
伊藤博文公が韓国国民を見守ってくれ、太子を導いて我々韓国のためにご苦労されたことは忘れられない。
にもかかわらずハルピンの事件(※伊藤博文の暗殺テロ事件)がおきてしまった以上、今後いかなる危険が到来するのかわからない。
これもまた韓国人自らそうしてしまったのである。
(中略)
それゆえ劣等国民として保護されるよりは、いっそ日本と合邦し大帝国をつくって世界の1等国民として日本人とまったくおなじ待遇をうけながら暮らしてみよう。
(1909年12月4日 一進会(百万の朝鮮人会員がいた)の講演会にて)
日本政府の反応
しかし、日本側の併合反対派であった曾禰荒助統監は、この合邦案を時期尚早との理由で却下すると共に、新聞社、通信社に働きかけ、反対の論調をとらせた。
それでも、韓国側の併合推進派である一進会は上奏書を却下されてもまた提出し、これを繰り返すこと4回目に桂首相の指示により遂に受け取られた。
1910年8月16日、李完用首相は日本の水害見舞いと称し、趙農相を伴い、寺内の居る統監邸を訪れた。
ここで山県副統監を交えた会談は3時間に及び、若干の修正にて日韓併合は合意に達した。
この結果にもとづき李完用首相は8月18日に閣議を開いたがまとまらず、8月21日、李完用が皇帝に内奏し、皇帝の了承を取り付けた。
これにより1910年8月22日の韓国の御前会議で韓国は正式に日韓併合を決定した。
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