特攻の母・鳥濱トメが遺した言葉
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「 みんな極楽へ行く方々だからねえ、とっても優しいよねぇ 」
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鳥濱初代 (富屋旅館三代目女将)
鳥濱トメが富屋旅館を開業したのは昭和二十七年。
戦後、特攻隊員のご遺族や生き残られた方々が知覧を訪れた時、泊まるところがないと困るだろうと、隊員さんたちが憩いの場としていた離れを買い取り、旅館にしたのです。
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「ここは、生きれども生きられなかった人たちが訪れていた場所。何かを感じ、自分が明日生きるという力に変えてほしい」
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トメはそう願い、旅館業の傍ら、
平和の語り部として、この離れで隊員さんとの
エピソードなどを語っていました。
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これは鹿児島県は薩摩半島の中程、知覧町にある富屋食堂でのことである。 知覧で出撃を待つ特攻隊員たちはこの食堂に出入りし、なにくれと世話をやく女主人鳥浜トメを母親のように慕っていた。 明日は死に行く少年たちのために出来ることと言ったら、母親代わりになって優しく甘えさせてやるしかない、そう思ったトメは私財をなげうって、特攻隊員たちに尽くされました。
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特攻出撃の前日、6月6日は宮川三郎軍曹の20歳の誕生日であった。
トメは心づくしの料理を作って、誕生日を祝うと同時に、明日に控えた出撃のはなむけとした。
途中、空襲警報が鳴って、みなで防空壕に入る。
防空壕の中で、宮川は幽霊のまねをして、トメの娘礼子たちを怖がらせた。
防空壕を出ると、星のない暗い夜がそこにあった。
街の灯りも灯火管制のために消されている。
食堂の横には小川が流れ藤棚とベンチがしつらえてある。 漆黒の闇の中、
小川の上を大きな源氏蛍が飛び交っていた。
宮川の声がした。
小母ちゃん、おれ、心残りのことはなんにもないけれど、
死んだらまた小母ちゃんのところに帰ってきたい。
そうだ、この蛍だ。
おれ、この蛍になって帰ってくるよ。
「ああ、帰っていらっしゃい」とトメは言った。
そうよ。皆川さん、
蛍のように光輝いて帰ってくるのよ、と心の中で言った。
宮川は懐中電灯で自分の腕時計を照らして言った。
9時だ。じゃあ明日の晩の今頃に帰ってくることにするよ。
店の正面の引き戸を少し開けておいてくれよ。
「わかった。そうしておくよ。」 とトメが答えた。
おれが帰ってきたら、みんなで 「同期の桜」 を歌ってくれよ。
それじゃ、小母ちゃん。
お元気で。
トメには別れの言葉がない。
死にに行く人を送る言葉なんてこの世にあるのだろうか。
宮川軍曹の後ろ姿は暗い夜道に消えていった。
ラジオが9時を告げて、ニュースが始まった。
その時、わずかに開いた表戸の隙間から、
一匹の大きな源氏蛍が光る尾を引きながら、すーと店に入ってきたのであった。
娘たちはほとんど同時に気がついた。
お母さーん、宮川さんよ。 宮川さんが帰ってきたのよ。
娘たちの叫びに、奥から出てきたトメは娘たちの指さすほうを見た。
暗い店の中央の天井。その梁にとまって明るく光を放っている蛍を見つけた時、
トメは息が止まるかと思った。
部屋の隅にいた兵士たちも集まって、
蛍を見上げた。
「歌おう」 とだれかが言った。
みな肩を組み、涙でくしゃくしゃになりながら、
「同期の桜」 を歌った。
歌はトメの好きな第3連に進んだ。
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貴様と俺とは 同期の桜
離れ離れに 散らうとも
花の都の 靖国神社春の
小枝で 咲いて逢うよ
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少年兵たちのオアシス
昭和17年、知覧に飛行学校(大刀洗陸軍飛行学校知覧分教場)が出来て、富屋が軍の指定食堂となった時、
女主人トメは数え年41歳であった。
指定食堂と言っても、健全で清潔で安心して軍人が立ち寄れる所だと推薦してくれるだけの事だった。
過酷な訓練に明け暮れ、たまの日曜日に外出しても、何の娯楽もない少年兵たちに、
富屋はたちまち大人気のオアシスとなった。
少年兵たちが壁にかかったメニューを見ていると、
小母さんが中から出てきて「何か食べたいものはあるかね。」
と聞く。
食べたいものなら、何でも作ってあげるよ。
そのために日曜日には材料を用意してみんなの来るのを待っているんだからね。
何でも言ってごらん。
少年たちがもじもじしていると、アンコロ餅はどうか、と聞く。
少年兵たちの顔が緩むと、さっそく1個作って、この大きさなら何個欲しい、と聞く。
「3個!」
「おれも!」
ためらいながら「天ぷら」と言う少年兵には、
「おとといあたりから海がしけていて、白身のいい魚がないから、イカとエビと野菜だけで我慢してくれる?」
「でも」
「でも、なあに」
「おれ50銭しか持ってないんだ。エビって高いんだろ」
「アハハ」とトメは笑う。
「男はおカネの事は言わないの」
着物や家財道具を売りながら、少年兵たちに食べさせてやるので、
トメの家は少しづつ広くなっていった。
時には、「本日休業」の札を出して、少年兵たちに貸し切りにしてしまう。
少年兵たちは畳の部屋に寝そべったり、トランプや将棋に興じたり、
郷里に手紙を書いたり、小母さんの手料理に舌鼓を打つ。
風呂で背中を流して貰うこともあった。
3月27日に娘の礼子が知覧の飛行場に動員され、
木立の中に三角屋根の特攻隊の兵舎が作られている、という情報をもたらした。
翌日夜、小林威夫少尉が訊ねてきた。
かつて教官として知覧に駐在していたことがあり、その時に下宿を探してやったりして、わが子同様に可愛がった青年である。
「小母さん、小林です。久しぶりにお目にかかれてこんなうれしい事はありません」と言う。
トメはいそいそと小林の好きなものを作ったが、
小林は何ものどを通らない様子。
「今度はどちら方面に行くの」と聞くと、
「小母さん、聞かないでくれよ」。
トメは気がついた。
もしかして、この人はあの特攻隊に選ばれたのだ。
いま目の前にいるこの子が明日死んでしまうなんて、
自分の娘たちとあまり齢のかわらぬこの子が明日には死んでしまうなんて、
そんなことってあるのだろうか。
できることなら、トメは小林少尉の肩を抱いて泣きたかった。
しかしそれはできない。
立ち上がって、廊下に出ると、かっぽう着の裾で涙を拭いた。
涙はあとからあとから途切れることなく流れ落ちた。
翌日、小林少尉は最後のお別れに来た。
昨夜より気持ちがふっきれたのか、むしろ淡々として見えた。
「小母さん、これまでのことはほんとうにありがとう。
小母さんには実のおふくろよりやさしくしてもらった。
忘れませんよ。この思い出を持ってあの世に行きます。
達者で長生きしてください。」
トメは必死に涙をこらえながら、手作りのおはぎを渡し
「部下の下士官の方へさしあげてください」と言うのがやっとだった。
小林少尉は最後の敬礼をし、トメは黙って頭を下げた。
少尉はゆっくり回れ右をして、飛行場の方に戻っていった。
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ぼくは朝鮮人です
光山文博少尉は京都薬学専門学校を卒業し、
昭和18年、特攻隊(特別操縦見習士官)を志願し、知覧で6ヶ月の速成教育を受けてパイロットとなった。
日曜日毎に富屋にやってきたが、無口でどこか寂しい人柄だったので、
トメはなるべく明るく接しようと気を配った。
光山少尉は厳しい訓練が続く中、休みになると必ず富屋食堂を訪れていた。
しかし、隊員とは誰とも話さず、大人しくしている。
訪ねてくる家族も、誰もいない。
トメは、そんな米山少尉に心を配っていた。
するとある日、光山少尉はトメにこう告げた。
「僕、実は朝鮮人なんだ」
光山少尉の母親は戦時中に亡くなり、
父親から日本男児として本望を遂げよと教育されてきたと聞いた。
そんな寡黙で優しい米山少尉が大好きでトメの2人の娘たちは米山さんが来てくれるのを心待ちにしていた。
ある日、
「明日出撃なんだ。
お別れに僕の国の歌を歌っていいかな」
そう言って光山少尉は帽子を深々と被り、トメとトメの娘2人の前で祖国の歌『アリラン』を大声で歌った。
下の娘は大好きな米山少尉の膝(ひざ)の上で泣き崩れた。
トメは娘2人と一緒に写っている写真を米山少尉にそっと渡した。
「小母ちゃん、ありがとう。
みんなと一緒に出撃していけるなんて、
こんなに嬉しいことはないよ」
そう言い残して、翌日、二度と帰ることのない大空に飛び立っていった。
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十九歳の中島豊蔵さん
中島さんは右手を骨折していたため、なかなか出撃の許可が下りませんでした。
しかし、いま行かなければ日本は負けてしまう。
その並々ならぬ思いで司令部に掛け合い、ついに許可が出たのです。
出撃前夜、トメは骨折で長くお風呂に入れなかった中島さんのために、
せめて最後にこの子の背中を流そうと、お風呂に入れてあげました。
ああ、この子ももういなくなるのか……。
そう思うと、トメの目に涙が溢れました。
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しかし、涙を見せてしまうと、
中島さんの決意を鈍らせてしまう。
心を掻き乱してしまう。
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トメは涙を堪えるため、とっさに身をかがめました。
「小母さん、どうしたんですか?」
「いや、お腹が痛くなって……」
そう誤魔化すと、中島さんは、
「それなら、僕たちを見送らなくていいですよ。
小母さんは自分の養生をなさってください」
明日飛び立つ自分の身よりも、
とっさについたトメの嘘にまで優しい心をかけてくれる。
そんな中島さんは翌朝、折れた右腕を
自転車のチューブで操縦桿に括りつけ出撃していったのです。
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特攻平和記念館などに飾られている
十代後半から二十代前半の彼らの顔写真を拝見すると、
実に立派で、清々しく輝いた眼をしていらっしゃる。
それはやはり、彼らの中にぶれない軸が、一本通っていたからなのだと思います。
トメは平和の語り部として語る時、いつもこう言っていました。
「私は多くの命を見送った。
引き留めることも、慰めることもできなくて、
ただただあの子らの魂の平安を願うことしかできなかった。
だから、生きていってほしい。命が大切だ」
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されど、
書き残した物の中には、
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「善きことのみを念ぜよ。
必ず善きことくる。
命よりも大切なものがある。
それは徳を貫くこと」
、
とも記されています。
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この言葉を見るにつけ、後の世の幸福を願って命を賭した隊員さんたちの姿が思い起こされてなりません。
「特攻隊のあの子らのことを決して忘れてはならない──」
そこからいまを生きる私たちが学ぶべき事はいっぱいある。
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推 薦 図 書
(※ 涙腺が緩みますので、電車の中など公衆の面前では読まない方が良いと思います。)
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「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9