ベナン共和国の悲劇

On 2013年9月14日

 

 

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 白人たちの欲望を満たすため、多くのアフリカ諸国が味わった苦しみを。そして、アメリカが太平洋戦争という名の元で犯した過ちのため、アフリカ人の受けたさらなる苦しみを、ベナン共和国を一例としてお話ししたいと思います。

 

ベナン 

外務省広報資料

 

ベナン共和国は、アフリカ大陸西方にあるギニア湾に面した国です。17世紀の中ごろから約300年にもわたり、大西洋奴隷貿易の中心でした。奴隷貿易が荒廃したのち、一八九四1894年から1960年まではフランスの植民地となりました。

第2次世界大戦後、日本人の白人国家との戦いを見た有色人種の間で民族意識が高まり、アジアやアフリカ諸国でも独立運動が激化してきた最中の、1960年、ダホメ共和国として独立を果たすことができました。

しかし、奴隷貿易時代~植民地時代のおよそ400年の間に、白人により、多くの国民が奴隷として連れ去られ、資源が収奪され、教育を受ける機会を剥奪されていたため、国政を安定させることができませんでした。ダホメ共和国では幾度となくクーデターが起こり、国は疲弊し混乱してしまいました。

その挙げ句は、世界的に共産主義が拡大する中、ダホメ共和国にも国の混乱に乗じて、共産主義革命勢力が入り込み増大し、1975年、マルクス・レーニン主義による社会主義国家となってしまい、国名も、ベナン人民共和国と改められました。

しかし、15年後の1989年に経済が破綻、新たな国家体制を模索することとなったのです。

1990年、時の大統領ケレクは、国民の代表たちとの話し合いに臨み、激しい心の葛藤の中にいました。彼こそが、共産主義によってこの国を指導していた張本人であり、多くの国民を「共産主義国家実現のために虐殺」した、最高権力者だったのです。彼の右手には600万人の国民の生死を左右する運命の綱が握られ、ポケットに入れていた左手には「共産主義を絶対に放棄するな」という中国や北朝鮮からの手紙が握られていたのです。この手紙は、判断次第によっては彼の命が危険にさらされていることを意味していたのです・・・・・

 

戦後、世界的に共産主義勢力が躍進し、「粛清」という名の自国民の大虐殺や、様々な悲劇、そして自由主義諸国との度重なる戦争があったことを、皆さんはご存知だと思います。

日本でも戦後、GHQの一部勢力の後押しを得て、「反日」的な考え方が善であると教えられ、共産主義、社会主義勢力が大変な勢いで拡大し、特に若くてエネルギーの爆発場所を求めていた大学生の間では、60年安保という闘争運動 (破壊活動) が一大ブームとなり、東京大学を核として破壊の嵐が巻き起こりました。

この流れが今でも続いており、占領政策の残り香である共産主義思想が高学歴者層を中心にこびり付いており、

 

「反日思想」を正義とする、左側に寄りたがる傾向が日本の知識者層にはあるのです。

 

この、共産主義勢力が世界的に急拡大した、その最大の原因は、アメリカにあったのです。

 

実は、アメリカは、イギリス援助の為の「対独戦への参戦」だけを目論んだのではなく、「中国での権益を狙って」日本に一発目を打たせ 「リメンバー・パール・ハーバー!」 と叫び、戦争参加に消極的だったアメリカ国民を、戦争へと、一気に駆り立てたのです。

「アメリカの対日戦争計画は、戦争準備が整うまでは中国軍(蒋介石軍が主体)を西欧列強と共に援助し、日本軍と戦わせ、さらに時間稼ぎをするため、日本との結論の出ない交渉を長引かせ、戦争準備が整ったところで、日本を対米戦争へと引きずり込み完膚なきまでに叩き潰す。日本がアメリカに未来永劫逆らえない状況を作り出した上で、日本と中国の利権を欲するままに収奪する」・・・このような青写真を描いていたのです。

結果、日本を叩きのめしたところまでは良かったのですが、日本軍 (日本人) の恐ろしさを肌身に感じて、日本の植民地化を諦めざるを得なくなりました。それだけではなく、ソビエトがいち早く南下し満州の工業地帯を押さえた上に、日本軍の武器弾薬までがソ連軍の影響下で中国の共産勢力に渡ってしまったのです。それだけではなく、日本との戦争で政府軍(蒋介石軍)は弱体化してしまい、共産勢力が圧倒的有利な状況を作り出してしまったのです。

その結果、中国国内で続いた政府軍と共産党軍の闘いに政府軍が敗れ、共産党独裁国家となってしまい、アメリカは中国利権をも得る事が出来なくなったばかりか、アメリカの天敵、「共産主義」が、中国・北朝鮮から始まり、ベトナム、そして中南米諸国、東南アジア、アジア、アフリカ諸国へと、世界各地に輸出されるようになってしまったのです。

 

このあたりのことは、次章「東条英機の遺言書」を読んでいただければ、もう少し分かって頂けると思います。

私たちの彼への「負の思い」とは別に、現状認識と国際情勢の分析能力は、日本陸軍の方がアメリカよりも高かったことも、よく分かっていだたけると思います。

何より、東条英機が、私たちが信じてきた負の人間像ではなかったことを読み取って頂けたら幸いです。

実は、欧米先進国の法律家たちによって『文明を退化させた茶番劇』と侮蔑されている東京裁判に基づいた、私たちが教わり信じ続けている誤った歴史認識では、東条英機の「戦争責任の実態」を、何も表していないのです。

東条英機は有名人でしたので、私たちに 「罪の意識を、強く植え込むため」 そして 「アメリカへの怒りを軍部に向けさせるため」 に、戦後作られたチャーターにより行われた東京裁判で、「日本軍は悪である」 と日本人に骨の髄まで教え込む目的をもって、「戦犯という名の犯罪者」に仕立て上げられただけなのです。

当時の日本人に対しての、戦争遂行における指導者として、心情的には「死んでも償いきれない大きすぎる戦争遂行責任」があった、『多くの戦争指導者たちの一人』に過ぎなかったのです。(※ 法律上は、無罪)

実は、戦後、日本に大きな禍根を残したのは、愚かな作戦を立案・遂行し、あまりにも多くの稀有な若者や市民を死に追いやった多くの戦争責任者たちが、GHQの東京裁判という名の茶番劇の陰で、一切のお咎めを受けなかったことなのです。日本人による戦争に関する検証作業が禁止されたため、「本当に戦争遂行における大失態を犯し、多くの兵士・国民を死に追いやった無謀極まりない作戦計画を立て、強行した、軍エリート官僚や責任者たちの多くは逃げ延び、高額な年金をもらいながらぬくぬくと余生を全うした」 事実を、私たちは知らなければなりません。 (ほんの一握りではありますが、本物の武人であった将軍たちだけは、責任を感じ、自決している)

 

また、今次大戦の総括がGHQによって許されず、未来に何の教訓も残せなかったため、今の日本の迷走があるのです。

 

 

東条英機とは、あまりにも有名人だったため、実際とはかけ離れた、アメリカの占領政策にとって都合の良い『罪状』により有罪とされ、処刑されたのであり、私たちは、GHQのウォー・ギルト・インフォメーション・プログラムの罠にまんまとはまり、その罪を信じさせられ続けているだけなのです。

そして、(白人国家が最も恐れた)世界最強を誇った日本陸軍は、GHQにより、私たち戦後世代に負の記憶だけを植え付けられて、消滅させられてしまいました。

はっきり言うなれば、国際法を含む日本のすべての法律を駆使して彼を裁こうとしても、彼の『無罪』は確定しています。

「日本人を骨抜きにする」GHQの第一目標達成の為、超有名人、『東条英機、元陸軍大将兼総理大臣』は、米軍の仕掛けたプロパガンダに利用されたのです。

 

その結果、GHQの目論み通り、いまだに私たち日本人は、贖罪の歴史観を抱え、「ありもしない罪への謝罪を続けさせられている」のです。

 

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

 

 

 

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