南京大虐殺の真実 31 百人切り

On 2013年9月4日

 

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「 百人切り 〝超記録″  」 の真実

シナ105東京日日新聞 (現毎日新聞) が、昭和12年12月13日、支那事変のさなか戦意高揚の為に掲載した記事

 この記事は、日本軍による南京大虐殺の重大な証拠とされ、今でも南京大虐殺の証拠資料として中国の南京大虐殺博物館で拡大版が飾られ、訪れる中国人たちの涙と怒りを誘っている。

写真に掲載されたお二方は、戦後、東京裁判では与太記事と確認され無罪。

その後、中国軍事法廷でこの記事を書いた東京日日新聞記者、浅海一男が 「この記事は、戦意高揚のために書いた、でっち上げ記事であった」 と最後まで証言しなかったため、死刑判決を受け銃殺となった。

 

この記事は、以下の点からデタラメであるとすぐに分かるものでした。

 砲兵隊の小隊長である向井少尉と、歩兵大隊副官である野田少尉は、両名とも最前線で白兵戦に参加する兵科ではない。

 向井少尉は「歩兵砲小隊長」であり、「 距離何百メートル、撃てーっ!」 と大砲を撃つ命令を行わなくてはいけない将校が、刀を振りかざして突撃などはしない。

 野田少尉は副官であり、「 副官 」 というのは常に隊長の傍らにいなければならず、戦場に飛び出して敵に切りかかることはできないし、作戦命令伝達などで忙しく、そんな暇もない。 ( ※ 「副官」 は記事では 「○官」 となっている。  軍情報を秘匿するために伏せ字にしていた )

 ある従軍カメラマンは、こう証言している。

「 日中戦争といえども近代戦であり、300メートル先の敵を撃つ戦争で、チャンバラはありえない 」

 

 

「 戦後、この記事を証拠に二人の少尉は日本軍の残虐性の象徴として中国に送られ雨花台で処刑された。

しかし嘘はばれる。この記事を書いた浅海一男は、東京日日新聞( ※ 現毎日新聞 ) の記者として戦前は上海事変に従軍していたが、戦後は閑職に追われ、のちに毎日新聞労組委員長の肩書となった。

毎日新聞も 「一億人の昭和史」 の中で彼の記事に疑問符をつけていた。

もし書いた当人がでっち上げを自供したら、それと関連させて支那が創作した 「南京大虐殺」 の嘘もばれる。

中国共産党政府は手を打つべきだと考え、日本との国交回復を前に「金も仕事もやるから家族ごと北京に来ないか」と浅海を誘った。

彼は針のむしろの祖国を捨てて支那に移り、娘の真里も北京大学に入れてもらった。彼女は今も中国政府の施設に店を出し優雅に暮らしている。

その代償はただ一つ 「百人切りはホントだった」 と言い続ける事だった。

おかげで南京大虐殺は生き残り、支那は3兆円を超える金を ODA の名の元に日本から巻き上げた。  安い買い物だった 」  ( 週刊新潮  (2012.8.30号) コラム 「変幻自在」  高山正之 著 より引用、一部改編 )

 

 

 戦意高揚のために書かれた事実無根の与太記事を、日本人の贖罪意識を強めるために、再度、新聞で大々的に取り上げたのが、朝日新聞であった。

このウソで固められた記事を、自分に責任が及ばないよう、かつ本当にあったがごとく日本人の潜在意識の中に刷り込むことが出来るよう、上手に書いたのは朝日新聞記者の 本多勝一。

本多勝一 とは、在日朝鮮人の 「崔 泰英」 である。

彼は出身を秘匿するようなまねしかできない、記者としての誇りを持っていない狡猾(こうかつ)な人間であった。

朝日には今でもこのような在日の人間たちが社内で実権を握り、強い影響力を行使している。

( ※ 朝日新聞、テレビ朝日、ABC朝日放送、週刊朝日などが、反日かつ中韓に大いに気を使った報道をする理由である )

 彼は昭和46年、この百人斬りを朝日新聞紙上で取り上げ、それまで毎日新聞でも書かれていなかったストーリー  ― 上官の命令で、百人斬り競争を三度繰り返した  ―  を創作して、書き加えた。
 後に、当の毎日新聞が、「 昭和12年の記事は創作だった 」 と、自社の刊行物で捏造を認めたにもかかわらず、朝日新聞は、その間違いを認めることは、ついぞなかった。

 平成18年、日本の法廷では、「 百人斬り報道は信ずることができず、甚だ疑わしいものと考えるのが合理的 」 と言及し、百人斬りが歴史事実であることを事実上否定した。

 しかし、本多勝一と朝日新聞は、百人斬りを収めた 「中国の旅」 を今でも平然と売り続けている。

 

 ちなみに、毎日新聞社が昭和44年に発行した 『 昭和史全記録 』 では、百人斬りは以下のように否定している。 

「 この記事は当時、前線勇士の武勇伝として華々しく報道され、戦後は南京大虐殺を象徴するものとして非難された。  ところがこの記事の百人斬りは事実無根だった。  向井少尉はこのとき手足に重傷を負っていた。東日記者 ( ※ 東京日日新聞の記者 ) に会ったのは南京の手前で、冗談に 「花嫁を世話してくれ」 と言うと 「天晴れ勇士として報道されれば花嫁候補はいくらでも集まる」 と、この記事になったという。  向井は昭和22年4月、東京軍事法廷 (東京裁判) に召喚されたが、新聞記事は事実ではないと釈放。2ヶ月後、再召喚され中国軍事法廷に立たされ、死刑の判決。( 以下略 ) 」

 

中国共産党が 『文化大革命』 と称する自国民の大量虐殺を開始してすぐの、昭和42年9月、毎日新聞と産経新聞が、10月には読売新聞が、中国共産党により 「好ましくない新聞社」 として、中国より追い出されてしまった。 

しかし、朝日新聞だけは追い出されることは無く、なぜか、そのまま支社を置き続けることができたのです。

以降、朝日新聞は、文化大革命 ( ※ 人民の大虐殺 ) が進行している中国が、「 平和で、人々が幸せに暮らしている素晴らしい国 」と、伝え続けた。

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南京戦に従軍し、「 百人切 り」 の新聞記事の写真を撮影した元東京日日新聞 (毎日) カメラマン佐藤振壽(しんじゅ)氏は、平成20年9月4日、95歳で亡くなられた。

佐藤氏は 「 “百人斬(ぎ)り” の新聞記事は事実ではない 」 と、最後まで言い続けて亡くなったのです。

 

 

 

武士道魂、ここにあり。「遺書」

 大東亜戦争が終結した2年後 (南京攻略戦からおよそ10年)、ありもしなかった南京大虐殺を支那人が創作する過程で、東京日日新聞に掲載された誰が見ても与太記事でしかなかった戦意高揚のための新聞記事を証拠として、非戦闘員に対して百人切りを行ったとされ、「無実の罪」 で支那に連行され死刑判決を受け、銃殺刑に処された2人の元陸軍少尉の最後の言葉です。

このお二人は、この記事を書いた 浅井一男 が、中国軍事法廷において、弁護側証人として 「 百人切りの記事は戦意高揚の為の創作であった 」 と正直に証言をしなかったばかりに、死刑判決を受けてしまった。

昭和23年1月29日、南京市雨花台へ雪が降り積もる寒さの中、多くの中国兵に囲まれ、幌もないトラックの荷台で拘置所から刑場まで運ばれ、公衆の面前で銃殺され、刑場に掘られた穴に投げ込まれ、今はその場所さえ不明となっている。

 

 

「死刑に臨みて」

 此の度、中国法廷各位、弁護士、国防部の各位、蒋主席の方々を煩はしました事につき厚く御礼申し上げます。 
只俘虜、非戦斗員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受け出来ません。  お断り致します。  死を賜(たまわ)りました事に就いては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
 今後は我々を最後として我々の生命を以て残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願い致します。 
宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或いは抗戦八年の恨みを晴らさんが為、一方的裁判をしたりされない様、祈願致します。
 我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。  我々の死が中国と日本の楔(くさび)となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が、到来する事を喜ぶものであります。何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願します。
中国万歳
日本万歳
天皇陛下万歳   野田 毅

 

 

「辞 世」

シナ106

 我は天地神明に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等の罪は絶対に受けません。  死は天命と思い日本男子として立派に中国の土になります。  然れ共魂は大八州島に帰ります。
 我が死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り日華親善、東洋平和の因ともなれば捨石となり幸ひです。
 中国の御奮闘を祈る
 日本敢奮を祈る

 中国万歳
 日本万歳  死して護国の鬼となります
 天皇陛下万歳

 十二月三十一日 十時記す 向井 敏明

nb

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

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