南京大虐殺の真実 24 新聞記者たちも同行
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南京入城に際し、新聞記者たちも同行
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南京が日本軍によって陥落したとき、日本軍兵士たちとともに、多くの新聞記者やカメラマンが共に南京市内に入りました。
その総勢は100人以上。
日本人記者たちだけでなく、ロイターやAPなど、欧米の記者たちもいました。
しかし、その中の誰一人として「30万人の大虐殺」を報じていません。
アメリカのパラマウント・ニュースも、南京占領の記録映画をつくっていますが、その中に「30万人大虐殺」は報じられていません。
また当時、中国で「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」というイギリス系の英字新聞が発行されていましたが、たとえば昭和12年12月24日 ( ※ 南京陥落の11日後) の紙面をみると、日本軍が南京市民に食糧などを配って市民が喜んでいる光景が、写真入りで報道されています。
これが一体「大虐殺」のあったという都市の光景でしょうか。
イギリス系新聞 「ノース・チャイナ・デイリー・ニュース」 1937.12.24 付
( 南京占領の11日後 )
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国民党軍によるプロパガンダにも出てこなかった南京大虐殺
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南京戦直前の1937年11月、国共合作下の国民党は中央宣伝部に国際宣伝処を設置した。
これは、日本軍による残虐さ、日本軍に侵略された可哀そうなシナの惨状をウソを交えて世界に向かって発信するためのプロパガンダ部隊である。
南京大虐殺どころか南京での民間人への暴行や強姦や殺害行為などがあったら、針小棒大に白人社会に向かって騒ぎ立てていたはずである。
しかし、国際宣伝処の極秘文書 『中央宣伝部国際宣伝処工作概要』 によると、
南京戦を挟む1937年12月1日から38年10月24日までの間に、国際宣伝処は漢口において300回の記者会見を行い、参加した外国人記者・外国公館職員は平均35名と記録されている。
しかし、この300回の記者会見において、ただの1度として 「南京で市民虐殺があった」 「捕虜の不法殺害があった」 と述べていない事実がある。
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さらに「Documents of the Nanking Safety Zone」には、日本軍の非行として訴えられたものが詳細に列記されているが、殺人はあわせて26件、しかも目撃されたものは1件のみであり、その他のすべては風評であった。
その1件は「合法殺害」と注記されている。
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南京大虐殺の証拠のウソ
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南京虐殺の「証拠」であるとする写真が南京の虐殺記念館を始め、多くの展示館、書籍などに掲載されている。
しかし、その後の科学的な研究によって、ただの1点も南京虐殺を証明する写真は存在しないことが明らかとなっている。
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南京大虐殺記念館はこうして作られた
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日本社会党委員長を務めた田辺誠は1980年代に南京市を訪れた際、当館を建設するよう求めた。 中国共産党が資金不足を理由として建設に消極的だったため、田辺は総評から3,000万円の建設資金を南京市に寄付し、その資金で同紀念館が建設された。 3,000万円の資金のうち建設費は870万円で、余った資金は共産党関係者で分けたという。
1982年、田辺の再三の建設要求と破格の資金提供に対し、中国政府の鄧小平ならびに中国共産党中央委員会が、全国に日本の中国侵略の記念館・記念碑を建立して、愛国主義教育を推進するよう指示を出した。この支持を受けて、1983年、中国共産党江蘇省委員会と江蘇省政府は南京大虐殺紀念館を設立することを決定し、中国共産党南京市委員会と南京市政府に準備委員会を発足させた。 鄧小平は1985年2月に南京を視察に訪れ、建設予定の紀念館のために「侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館」の館名を揮毫し、鄧小平の視察直後に紀念館の建設が着工され、抗日戦争終結40周年に当たる同年8月15日にオープンした。
シナでの正式名称は『 侵華日軍南京大屠殺遇難同胞紀念館 』 (ウイキペディアより引用)
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「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9
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