南京大虐殺の真実 23
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捕虜の扱い
第16師団長 中島今朝吾中将の日誌に、「 大体捕虜ハセヌ方針ナレバ 」 とあるのを、戦後、GHQは都合よく解釈し、『 捕虜の集団処刑が軍命令、もしくは師団命令によってなされていた 』 となった。
それでは、投降した捕虜の扱いは、本当は、どのようなものであったのでしょうか?
先ず、中島中将の日誌の真実の解釈は、「 銃器を取りあげ釈放せい、ということです。 中国兵は全国各地から集まっていますが、自分の国ですから歩いて帰れます。」 ( 大西一上海派遣軍参謀 述 『 正論 』 昭61年5月号 小学館文庫 )
歩兵第45連隊が下関(シャーカン)で捕えた捕虜5,000人の釈放の状況を、当時朝日新聞の記者であった本田勝一は 『南京への道⑰」(『朝日ジャーナル』昭和59年8月3日号 ) で次のように述べている。
「 たくさんの国民党軍将兵が、帽子を逆にかぶって(ひさしを後ろにして)投降した。
一か所に集められたところへ、日本軍のリーダーらしき人物が馬に乗って現れた。ヒゲが両耳からあごの下三~四センチまで下がっていた。日本語で何か訓話したが、細かいことはわからず、通訳によれば要点は 『 お前らは百姓だ。釈放する。まっすぐ家に帰れ。』 と言っているらしかった。
一同は白旗を作らされた。それぞれありあわせの白布を使い三〇センチほどの木の枝に結びつけた。
川岸には住民の捨てた荷や衣類がたくさん散乱していたので、軍服を脱ぎ捨ててそれを着た。数千人の捕虜たちは、釈放されると白旗を掲げ、それぞれの故郷にばらばらに出発した 」
このような証言は、数多く残っており様々な書物に著されているが、いまだに無視されたままなのであることを、私たちは、しっかりと認識しなければいけません。
釈放されて郷里へ帰る前に笑顔で写真におさまる中国兵捕虜たち
(朝日版支那事変画報 1939.8.5刊)
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参考になるサイト
アパホテルに圧力をかけるシナ共産党
真剣に国家が圧力をかけたということは、南京大虐殺がないことを良く知っているから、日本を貶めるプロパガンダを死守すべく、シナ共産党は必死になっていると捉えるのが、常識ある国際人の考え方である。
https://www.apa.co.jp/newsrelease/8325
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