南京大虐殺の真実 20 シビリアンコントロールの “暴走”

On 2013年9月2日

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陸軍ではなく、文民の暴走

 

実は、このとき陸軍は、満州北方に展開する強大なソ連軍に備えるべく南京占領をもって戦闘終了を強く具申していたが、昭和13年1月16日、時の総理大臣近衛文麿は、2日前に行われた天皇陛下を迎えての御前会議の結論を完全に無視、有名な内閣声明  「南京政府(蒋介石)を対手(あいて)とせず」を世界に向かって発表。

陸軍は和睦の相手を失ってしまった。

さらにその2日後、「対手とせず」とは 「 蔣介石を抹殺する」ことの意味であるとの解釈をわざわざ政府声明として内外に発表した。

文民政治家達も事変拡大に走る近衛に追随し、前年の昭和12年7月7日に起こった死者ゼロの 『盧溝橋事件』 をきっかけとした小さな局地戦に対しては現地で停戦協定が結ばれ戦闘は終結していたにもかかわらず、( 陸軍の反対を押し切って )  戦時予算にまで次々と上積みさせ、増税までを行い、三個師団の増派を閣議決定。

名称までも 『 北支事変 』 に改変。

同年9月10日には、早々と 『 支那事変 』 と中国全土に戦域が拡大したがごとき名称に変えていたのである。

新聞各紙も、中国戦線の拡大を目指し、事実と異なった戦意高揚の記事を連日掲載。

大々的に国民の戦争熱を煽るような記事で充満していた。

陸軍としては、引くに引けない状況に追い込まれてしまった。

 

世界全体に軍国主義・帝国主義が蔓延(まんえん)し、戦争に次ぐ戦争というきな臭い世界情勢の中、

国土が戦場になったことがないゆえに戦争の悲惨さを全く知らなず、戦いに勝つことによるスカッとした高揚感を求める国民の熱気と、
当時、戦争反対論を書くと販売部数が減り、戦意高揚を記事にしないと売れない新聞各社の熾烈な販売競争に勝ち抜くために書かれた「戦意高揚」「戦争礼賛」記事との相乗効果で、
日本国民全体が戦争に向かって熱気を帯びていた時代に、民意の風に乗ることしか考えることのできない超人気者の意志薄弱者が「国の行く末を左右する首相」になったことは、この国の不幸でしかなかった。

 

近衛の手記にこうある。

「この声明は、識者に指摘されるまでも無く、非常な失敗であった。余自身深く失敗なりしことを認むるものである」

戦争相手である蒋介石政権との、絶交宣言ともいえる声明で、和平の道ははるか彼方へと遠のいた。

昭和天皇の苦悩と落胆も大きかった。心労からか風邪をこじらせ、2月上旬には寝込んでしまっている。

謁見(えっけん)した外相の広田弘毅が、「いかにも憔悴(しょうすい)しておられる。まことに見上げるのもお気の毒なようなご様子であった」と漏らしたほどだ。

 

私たちが学んだ歴史によると、当時人気絶頂だった 近衛首相 は、平和を希求するも気が弱く、軍によって翻弄させられた可哀そうなお公家さんであったが、彼の口癖は「軍の先手を打つ」であった。

戦う意味 (実益) のない、いつ止めても日本の国益には影響のない支那事変 (日中戦争) は、陸軍の暴走ではなく、必死に止めようとした陸軍に対し、「 シビリアン (文民) の暴走 」 によって拡大し泥沼化させられたのである。

私たちが学んできた歴史とは、戦後、GHQにより歴史が作られる際、日本国民の怒りを(アメリカではなく)日本人の誰かに向けるべく、陸軍と東条英機をスケープゴードとするために見事にすり替えられた、『 架空の歴史物語 』だったのである。

 

その結果生まれた、現代日本の 「シビリアン・コントロール」 とは、日中戦争を真実の歴史に基づき反省していないために出てきた戯言としか考えられない。   独立国家を堅持するための基本要素となる国防が、今の日本では、シビリアン・コントロールの名の元、迷走を続けているのである。

 

正しい歴史に基づく正しい反省をしていないが故に、「シビリアン・コントロール」 の解釈、使い方を誤り、例えるなら、「野球を見たこともやったこともない人間に巨人軍の監督をやらせ、ペナントレースを戦わせている」 状態にしているのが、今の日本の国防 (防衛大臣) なのである。

何も解っていない人間が (国家を守る重責を担う) 国防を判断する現状では、日本に防衛上、重要となる報告すらまともに理解が出来ず、ましてや有効に自衛隊を活用することなど不可能であり、独立国家としての日本を危機的な状況に陥れる。

シビリアン・コントロールの名の元、まったくもって不適格な大臣が続く我が日本では、『 国の存続の最も基本となる防衛 に関する状況は、役に立たないどころか害悪でしかない決定にまでにも多大な時間と労力を浪費する現状であり、本当に必要なところには予算が回らず、必要な対処を怠り、必要な防衛体制を築くことすらおぼつかないばかりか、無駄な防衛費の使い方までさせる結果を招き、結果、日本を弱体化させ、戦争の危機を増大させているのである。 

(※  世界常識として、人間の心理は、「強い相手とは、喧嘩をしようとは考えない」ことに、多くの日本人が(国会議員や有識者も含めて)理解できていないのも、その一つ )

 

南京陥落後、蒋介石総統は九江に逃れ、街を丸ごと接収し糧食を奪ったため人々は自分の街で難民と化した。  日本陸軍は、和平を結ぶことが不可能となったため蒋介石軍を追った。

日本軍が迫ると追撃が出来ないよう長江の堤防を切り10万人もの支那人を巻き添えで殺し、井戸にペスト菌をまいてまた逃走を図った。

日本軍は街の人々に食料を分け、堤防を直し、井戸の水を浄化してから蒋介石の軍勢を追撃した。  日中の平和条約を踏みにじり、いつ襲ってくるか分からない蒋介石軍を 「完全に殲滅」 することで、日本人居留民(民間人)の安全を確保するしか方法がなくなり、追撃を続けたのである。

日本軍は南寧を落とした後、蒋介石軍を抱き込んで日本軍と戦わせていたアメリカが、イギリスと共に国際法を無視し、日本からの度重なる懇請(こんせい)を黙殺、大量の武器弾薬をビルマ側から蒋介石軍に送り込むために使っていた 『援蒋ルート』 を遮断すべく、

昭和15年8月30日、国際法に則って、フランス・ヴィシ―政権との間に 「松岡-アンリ協定」 を結び、

9月23日、フランス支配下にあった仏印(現ベトナム)に進駐。

対するアメリカは、将来の日米開戦の伏線とすべく、対処を始めた。

国務長官のコーデル・ハルは、国際法に基づき合法的に結ばれた『日仏協定』に対して不承認声明を発した上で、

昭和15年9月26日、「全等級の屑鉄屑鋼の対日輸出を禁止する」方針を発表したのである。

そのおよそ1年後、対日戦争の準備が整ったことを確認したルーズベルト大統領は、

昭和16年8月1日、日本への石油輸出を禁止した。

日米の間に何ら争いが無かったにもかかわらず、日本の生命線が一方的に断ち切られた瞬間である。

『援蒋ルート』の半分を輸送していた仏印ルート

シナ78

 

 

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

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