南京大虐殺の真実 19 追撃戦
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日本軍の追撃戦
10倍近い敵軍を壊走させた上海派遣軍は、10月20日に編制された第10軍 (柳川平助中将) と共にすかさず追撃に入った。 また、平行追撃と同時に敗軍の追討のために南京を攻略する構えを見せた。
当初、参謀本部は「戦線不拡大」の方針であり、南京進撃を中止するよう下令したが、現地では、(戦の常道である) 敗走する敵軍を追撃、のちに参謀本部も現地派遣軍の方針を採用し南京攻略を追認した。
しかし、予定外の追撃戦となったため、兵力は十分でなく、運送手段も機械化されておらず馬か人間がかついで物資を運ぶ状況下、兵站(へいたん)( ※ 物資の輸送 )が整わない、多分に無理のある進撃であった。
そのような劣悪なる環境下であっても、上海派遣軍司令官松井岩根大将は、南京攻略を全軍に伝えるに際し、「 南京は中国の首都である。これが攻略は世界的事件であるゆえに、慎重に研究して日本の名誉を一層発揮し、中国民衆の信頼を増すようにせよ。特に敵軍といえども抗戦意思を失いたる者および一般官民に対しては、寛容慈悲の態度を取り、これを宣撫愛護せよ 」 と厳命した。
また松井大将は 「 南京郊外にある孫文の慰霊廟、中山陵を戦火から守ること 」 を厳命、「 その命令を破った者には厳罰を処す 」 とし、その保全に成功した。
中国軍の重武装された複郭陣地を、少ない火器・兵力で多数の戦死者を出しながらも突破した松井大将率いる日本軍12万は、12月4日、南京市に到着。
日本軍は、南京城内に使者を送り降伏勧告を行ったが、まったく返答を得る事ができなかった。
五日間の猶予を与えた後、12月9日、日本軍は南京城を完全包囲し、翌日正午を期限とする降伏勧告を再度行ったが、防衛司令官唐生智(とう せいち)はこれを拒否、徹底抗戦の構えを見せた。
日本軍は12月10日より総攻撃を開始した。
12月7日、日本軍による総攻撃を前にして、蒋介石総統ら政府 ・ 軍の高官らが南京を脱出。
12月12日、後を任された南京防衛戦の総指揮官である唐生智も、戦闘命令だけを発し逃亡した。多くの指揮官も、何らの退却命令を下すことなく、配下の軍隊を放棄して勝手に逃げてしまった。
その際、兵を逃げられないようにトーチカの床に鎖で足を縛りつけ死ぬまで日本軍に射撃するよう強制し、長江への逃げ道になる南京城の邑江門には仲間を撃つことを躊躇(ちゅうちょ)しない督戦隊(とくせんたい)を置いて、退却しようとしたり日本軍との交戦を躊躇する多くの中国兵を後ろから射殺する愚挙(ぐきょ)に出た。
残された中国兵は、司令官どころか指揮官までが逃走し、指揮・命令系統が崩壊、大混乱をきたし、南京城内で中国軍兵士による、金品の奪い合い、強姦、略奪、リンチ、虐殺、放火が各所で行われた。
また、安全区に逃げ込む敗残兵も多数いたが、国際委員会は積極的に見逃した。
この安全区へ逃げ込んだ敗残兵(便衣兵)の摘発が、のちに「南京大虐殺」のネタ元の一つとなってしまった。
15月13日、南京陥落。
12月17日、治安を回復させた日本軍の入城式が、南京市民の 「熱烈歓迎」 のもと執り行われた。
朝香宮殿下の南京入城 日本軍の紀律が守られていたことがうかがえる (防衛研究所所蔵)
中国兵たちの極悪非道なる残虐行為に辟易(へきえき)していた南京市民たちは、日本軍の入城を歓声をもって迎えた。
上記の写真は、日本軍の入城式の日(昭和12年12月17日)に、歓声をもって迎える南京市民ら。 ( 毎日版支那事変画報 昭和13年1月11日発行 )
「正しい日本の歴史」 (目次)
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