南京大虐殺の真実 14 第2次上海事変 (消去)

On 2013年8月31日

 

第二次上海事変

 

第一次上海事変後、停戦協定により中国軍は上海中心地への駐留が禁止され、三二〇〇人ほどの保安隊だけが認められていたが、先制攻撃が勝利への唯一の道と考えていた蒋介石率いる中華民国軍は、ドイツ軍顧問団の指導の下、昭和一二年七月下旬から、保安隊や憲兵隊に変装した兵隊を閘北に入りこませ、一帯には土嚢を積み、戦闘準備を着々と進めた。このため八月に入ると、自国の保安隊の動きに不安を煽られた上海市民は第一次上海事変を想起し、共同租界地やフランス租界地へ避難し出し、その数は一日に二万人とも五万人ともいわれた。
昭和一二年八月九日、非武装地帯内で、海軍中尉大山勇男殺害事件が起きた。
大山中尉、斉藤水兵の両名は機銃弾がその頭部を貫通したことが致命的であること、無抵抗の状態で射殺されていること、大山中尉は全身に三〇発以上の銃弾が打ち込まれていたこと、その他の弾痕を含む外傷は支那側が苛虐的に加えたものであることが検視の結果明らかとなった。また、国際法で禁止されている「ダムダム弾」までが使用されたことが明らかとなった。



大山事件の現場



昭和十二年八月一一日、「上海停戦協定」に違反して、蒋介石は約一万二〇〇〇名の偽装保安隊を軍備禁止地域に送り込んだ。これを知った上海市長が日本領事に電話をかけ、「自分は無力で何もできない」と通報。危機を感じた日本軍は同日夜、陸戦隊一支隊を予防のために上陸させた。上海には当時、揚子江上流から2万2千名の日本人引揚者がいた。蒋介石軍は七〇万人の大軍を集結し、ドイツ軍事顧問団の指導のもと二万ヶ所にも及ぶ重武装を施した鉄壁のトーチカ網を築き要塞となし(ゼークトライン)、日本守備隊と居留民を脅かした。


中華民国軍の機関銃陣地


昭和一二年八月一二日未明、中国国民党正規軍本体が上海まで前進し、中国軍屈指の精鋭部隊である第八七師、第八八師団などの約三万人が、国際共同租界の日本人区域を包囲した。対する日本軍は、軽武装の上海陸戦隊ほか四〇〇〇人余りであった。
午前一〇時半頃、商務印書館付近の中国軍は日本軍陣地に対し機関銃による射撃を突然開始。日本の陸戦隊は応戦したが、日本政府による「戦線不拡大方針」に基づいて可能な限りの交戦回避の努力を行い、また戦闘区域が国際区域(欧米の租界)に拡大しないよう、防衛的戦術に限定した。
翌一三日には商務印書館付近の中国軍が日本軍陣地に対し機関銃による一斉射撃を開始、小規模な戦闘が勃発した。さらに中国軍は空襲を加え、八月一四日には中国政府軍が航空機により日本軍艦艇を攻撃。日本政府は国民党軍が上海において日本側に対しての砲撃、さらに日本の軍艦に対しての爆撃まで行ったことから、それまで日本が取っていた事態の不拡大政策を見直し、八月一五日未明、「支那軍膺懲、南京政府の反省を促す」との声明を発表した。
このように、中国政府軍による上海攻撃の結果、日中両軍は全面戦争に突入した。

中国政府軍による上海(日本人租界)攻撃で、日中両軍は全面戦争に突入する第二次上海事変が勃発することとなった。

 

本部屋上で待機する海軍特別陸戦隊

 

 

八月一五日になると、中国軍は第一五師、第一一八師が加わり、一七日には第三六師も参戦し、七万あまりとなった。日本側は、横須賀と呉の特別陸戦隊一四〇〇名が一八日朝に、佐世保の特別陸戦隊二個大隊一〇〇〇名が一九日夜に上海に到着し、合わせて約六三〇〇名となった。

八月一八日、英政府が日中両国に対し、「日中両軍が撤退し、国際租界とその延長上の街路に居住する日本人の保護を外国当局に委ねる事に同意するならば、英政府は他の列強諸国が協力するという条件の下で責任を負う用意がある」と通告した。仏政府はこれを支持、米政府もすでに戦闘中止を要求していた。

しかし、既に本格的な戦闘に突入していた日本政府は、これを拒否。

『国民党政府が協定違反による開戦意思を持っている』以上、日本はそれと対決する以外ないと判断し、日本は全面戦争への突入に踏み込んだ。このときまでに、各国の租界の警備兵は大幅に増強され、各地域はバリケードで封鎖して中国軍と対峙した。中国軍も欧米列強とは戦争を行うつもりは無く、欧米列強の租界への侵入は行わなかった。日中の衝突が列強の即得利益を脅かしかねないと感じた列強各国は、この事件において中立を表明した。

八月一九日以降も中国軍の激しい攻撃は続いたが、特別陸戦隊は一〇倍ほどの精鋭を相手に孤軍奮闘、大損害を出しながらも、租界の日本側の拠点を死守した。蒋介石は後日、「緒戦の一週目、全力で上海の敵軍を殲滅することができなかった」と悔やんだ。

八月三〇日には海軍から、三一日には陸軍上海派遣軍司令官松井大将から、陸軍部隊の増派が要請された。

九月九日、台湾守備隊、第九師団、第一三師団、第一〇一師団に動員命令が下された。

一〇月九日、三個師団を第一〇軍として杭州湾から上陸させることを決定した。

一〇月一〇日、上海派遣軍はゼークトラインに攻撃を開始、二日後には各所で突破に成功した。

一〇月二六日、上海派遣軍は最大の目標であった上海近郊の要衝大場鎮を攻略し、翌二七日、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。大場鎮を落として、上海はほぼ日本軍の制圧下になったが、中国軍は蘇州河の南岸に陣地を構えており、第三師団と第九師団はドイツ軍が築かせたゼークト・ラインの頑強なトーチカに阻まれ、進むことができなくなっていた。

一一月五日、損耗の激しい正面突破を諦め迂回し、上海南方六〇キロの杭州湾に面した(中国軍の撤退経路になる)金山衛に日本の第一〇軍が上陸。上陸しても、後ろを取られた中国軍よりの攻撃はほとんどなかった。翌六日、「日軍百万上陸杭州北岸」というアドバルーンが上海の街に上げられると、蘇州河で戦っている中国軍は、第一〇軍によって退路が絶たれるかも知れないと大きく動揺した。

一一月九日、中国軍はおよそ二十万人の死傷者を出し一斉に敗走を始めた。

日本側は三ヶ月で戦死者一〇〇七六名、戦傷者三一八六六名、合わせて四一九四二名の死傷者を出し、戦闘日数に対する死傷者数では、日露戦争の旅順攻略にも匹敵する凄残な消耗戦であった。

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