南京大虐殺の真実 12 第1次上海事変

On 2013年9月1日

 

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第1次上海事変

 

昭和7年に入ると、上海市郊外に蔡廷(金皆)率いる19路軍 (三個師団3万3,000人) が現れた。 

傘下の師団の扶養に困っていたのか、蔡廷は給与が支給されるまでは去らない旨を上海の租界参事会に通告した。

しかし蔡廷の本当の目的は給与の支払いではなく、繁栄を極めていた上海の街を手に入れようとしているというのが日英米で成る共同租界防衛委員会の全員の意見であった。

1月26日、中国当局の戒厳令布告、中国人地区全域に土嚢と有刺鉄線のバリケードの構築、外国人住民に租界内への避難勧告がされた。

翌1月27日、日本を含む列国は協議を行い、共同租界内を列国で分担して警備することを決定。

1月28日、上海市参事会の非常事態宣言(戒厳令)がされ、列国の軍隊は1月28日 「午後5時」 より各自の担当警備区域に着いた。

日本の兵力は、陸戦隊の1,000人ほどだったため、軍艦より1,700名を上陸させ、合計2,700名となった。

                    

 シナ63昭和5年ごろの上海バンド埠頭近く中心街

 

 

昭和7年1月28日午後、警備につこうとしていた日本軍は、突然側面より支那兵の射撃を受け、90余名の死傷者を出した。

初の軍事衝突が発生し、翌日にかけての夜間に戦闘が続いた。

中国国民党支配の転覆を狙う反政府の広東派及び共産党などが、3万3,000名もの兵力を誇る第19路軍を使って、日本軍に対してのみ襲撃を加え始まった、第1次上海事件の勃発である。

軍事衝突発生を受けて、日本海軍は第三艦隊  ( 司令長官 : 野村吉三郎中将 )  の巡洋艦四隻(那智など)、駆逐艦4隻、航空母艦2隻 (加賀・鳳翔) 及び陸戦隊約7,000人を上海に派遣することとして、これが1月31日に到着する。

2月2日、日本政府(犬養毅内閣)は、金沢第9師団 (師団長植田謙吉陸軍中将) 及び混成第24二四旅団 (久留米第12師団の歩兵第二四旅団を基幹とする部隊) の派遣を決定した。

2月16日、蒋介石率いる国民党軍は第87師、第88師、税警団、教導団を第5軍 (指揮官:張治中) として、上海の作戦に加わる。

2月18日、日本側の第九師団長は、更なる軍事衝突を避けるために、列国租界から中国側19路軍が20キロメートル撤退すべきことを要求した。

しかし19路軍を率いる蔡廷 (金皆) が要求を拒否したため、2月20日に日本軍は総攻撃を開始した。

「 19路軍は南京政府の統制に服するものではない。今回の上海事変は反政府の広東派及び共産党等が第19路軍を使嗾して惹起せしめたるものと云ふべきである。
斯の如く支那特有の内争に基き現政府に服して居らぬ無節制な特種の軍隊が軍紀厳粛なる帝国陸戦隊に対し、国際都市たる上海に於いて挑戦し租界の安寧を脅かして居ることは、実に世界の公敵と云ふべきであって、我は決して支那国を敵として戦って居るものではなく、此第一九路軍のやうな公敵に対して自衛手段を採って居るに過ぎない。」 ( 日本海軍省 「上海事変と帝国海軍の行動」 昭和7年2月22日 )

日支両軍の戦闘は激烈を極めた。

2月24日、日本陸軍は善通寺第11師団及び宇都宮第14師団等を以て上海派遣軍 (司令官:白川義則大将、参謀長:田代皖一郎少将) を編成し上海へ派遣。

3月1日、第11師団が国民党軍の背後に上陸し (七了口上陸作戦) 、蔡廷鍇が率いる19路軍は退却を開始。

3月3日、日本軍は戦闘の中止を宣言した。

第1次上海事変は日中両国、および 英 米 仏 伊 4カ国による停戦交渉が3月24日から上海で開始され、同年5月5日に日本軍の撤退および中国軍の駐兵制限区域 (浦東・蘇州河南岸) を定めた停戦協定が成立した。 ( 上海停戦協定 )

一連の戦闘を通じて、日本側の戦死者は769名、負傷2,322名。 中国軍の損害は1万4,326人であった。 36日間の戦闘によって中国側住民の死者は6,080人、負傷2,000人、行方不明1万400人と発表された。

 

 

シナ64 上海へ迫る第19路軍

 

シナ65日本海軍特別陸戦隊

 

その後も、日本の 「 平和を口実にした弱腰外交 」 を見たシナ人による支那各地での、抗日・排日・侮日行為は続き、各地で日本人の 惨殺 ・ レイプ事件 ・ 死に至らしめる拷問事件 が頻発(ひんぱつ)した。

 

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

 

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