南京大虐殺の真実 11 平和外交から始まった

On 2013年9月1日

 

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南京事件は、日本政府の大人の対応 「平和外交」 から始まった

 

昭和2年3月、中華民国総統 蒋介石が率いる中国国民党軍がソビエト・コミンテルン (ソビエト共産主義革命を世界に広げる組織) に浸食を受け、拡大しつつあった共産派暴徒を排除するために行っていた北伐中に、共産派暴徒 (革命軍) による排外暴動がおこった。 

戦前の日本では、これを 『 南京事件 』 と呼んでいた。

共産派暴徒は、国際法に基づき中国との約定のもと構成されている外国の権益や領事館 (大使館)、居留民 ( ※ 仕事の為に中国に住んでいる民間人 : 現在、中国に滞在している日本人ビジネスマン、そして中国へ進出した日系企業や日系の店舗で働いている人たちとその家族をイメージしていただければよいと思います ) を襲い、目を覆わんばかりの虐殺・暴行・強姦・略奪・放火の限りを尽くした。

米・英・仏の軍艦は、居留民を守るため、共産派暴徒が立てこもる南京城内に向けて砲撃を開始。

しかしながら、日本だけは、度重なる 米 ・ 英 からの砲撃要請にもかかわらず、日本国政府より 「一切の攻撃はこれを禁ずる」 という理不尽極まりない命令により、隠忍し、一切の砲撃には加わらなかった。

これを 『 弱腰の日本 』 と受け取った革命軍は暴徒化し、日本の民間船を破壊、駆逐艦に対し射撃し日本軍に戦死者を出した。  そのあげく、命令により、一切の手出しができない荒木大尉以下12名の水兵が武装解除 (武器を取り上げられ拘束) され、在留邦人は全員暴行・略奪・少女までもが凌辱を受け、ある者は殺され、ある者は生きたまま手足をもがれた。  その後、生き残った居留民全員は領事館に収容されたが、この領事館も3回にわたって襲撃を受けた。

その惨状は、筆舌に尽くしがたいひどいものであったという。

日本軍は、命令で発砲を禁じられており何の抵抗もせず、居留民保護にあたるどころか、簡単に武装解除されてしまい、監禁・暴行されるありさまであった。 

反撃をしない (弱腰に見える) 日本軍に、中国兵はますます日本人に対して凶暴さを増し、侮日(ぶにち)思想(日本をバカにする考え方)を増長していった。

欧米列強のように堂々と対処することのない日本政府の、友愛精神に基づく、客観的に見ると無責任な 『 平和外交 』 は、中国の排日、抗日運動を強まらせ、侮日思想を一層高揚させ、各地で日本人へ拷問虐殺・強姦・略奪が頻発したのである。

そればかりか、この無責任極まりない 「平和外交」 は、米英の日本に対する 「日本が中国に対して米英のように適正な対応を取らないのは、中国利権を独り占めにする密約を中国と結ぶ為ではないのか?」 という米英の不信感を生むきっかけとなってしまった。

昭和3年5月には、済南に住む多数の日本人が 虐殺 ・ 凌辱 (強姦や輪姦) ・ 暴行 ・ 略奪 された。

その殺害方法は残忍さを極めたのである。

第16師団第30旅団長 ・ 佐々木到一少将はこの事件に立ち会っており次のような手記を残している。

「 予は病院に於いて偶然その死体を実見したのであるが、酸鼻(さんび)の極みだった。手足を縛り、手斧のようなもので頭部、面部に斬撃を加え、あるいは滅多切りとなし、婦女はすべて陰部に棒が挿入されてある。あるものは焼かれて、半ば骸骨となっていた。焼け残りの白足袋で日本婦人であることがわかったような始末である・・・・・ 」

この済南事件に対しても日本政府は、ほとんど抗議も行わず泣き寝入りであった。

このような残忍極まりない事件が日本人に対して続発しても、日本政府は一切事なかれ主義をとり、ひたすら無為無策、「平和外交の方針」 に終始したのです。

 

 

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

 

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