南京大虐殺の真実 10 南京市の人口推移
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南京市内の人口推移
『 Eyewitness to Massacre 』(虐殺の目撃証人) という本が、2001年、アメリカのM.E.Sharpe社から発刊されている。
事件当時、南京に在住していた(反日・侮日に凝り固まり、日本とすでに戦争状態であった)アメリカ人宣教師たち10人の家族・友人にあてた手紙が、エール大学図書館に所蔵されている。 それをまとめて本にしたものである。 家族・友人にあてた手紙であるから、政治的な装飾は少なく、かなり実態を伝えている文章と見ることができる。
この記録を時系列で丹念に追っていくと、陥落直後だけでなく、その後もただの1件も虐殺を目撃したという記述が無いことに気づく。
昭和12年に中国が発行した南京の地図を見ると、東西5Km南北11Kmで総面積は場外の下関(シャーカン)まで加えて約40平方キロ。 東京都世田谷区の約八割弱の小さなエリアです。
この小さなエリアには、飛行場もあれば畑や小高い山までもあり、人が住める土地は僅かしかありません。
このように狭い町の一角に3.8平方キロを区切って、非戦闘エリアとして 「安全区」 を設け、日本 (有色人種) を敵視していた 米 ・ 英 ・ 独 (白人諸国) による国際委員会が管理していました。 この安全区 (難民区) に 南京市民20万人 のほぼ全員を収容し、保護していたのです。
この国際委員会は、日本軍が入城した12月13日から翌年の2月9日までの間に、日本大使館および 米 ・英 ・ 独 大使館あてに61通の文書を手交または発送していました。 主として日本軍の非行や治安・食糧そのほか日本軍に対する要求を訴えたもので、実に巨細にわたって毎日のごとく記録されたものです。
この文章の中で、3回にわたって、安全区内の総人口は20万人であると記述されています。 米副領事エスピーの本国への報告にも、ラーベ委員長のドイツ大使館への報告にも、南京の人口は、20万人と記されています。
先ず思いつくのは、20万人の人口に対し30万人の虐殺は、かなり不可能な数字であるということです。
また、国際委員会が食料を供与するために人口の掌握をし、日 ・ 米 ・ 英 ・ 独 大使館にあてた公文書によると、12月17日、21日、27日にはそれぞれ20万人でしたが、翌1月14日になると25万人に増えており、以後2月10日まで25万人となっています。
私たちが学び信じている歴史によると、この時期は、まさに、日本軍による30万人の大虐殺の真っ最中であり、強姦・略奪・放火やりたい放題の状態が6週間に渡って行われている、まさにその時であり、死臭が充満し、道路には血があふれ、死体があふれ、車が死体を踏みつけて走っている、悪夢の無法都市 「南京アトロシティー」 状態 (のはず) でした。
この、全滅状態以上にまで人口が減らなければならない時期に、逆に、人口が増えているのは、なぜでしょうか?
結 論
民衆には地元に住んでいる強みで口コミの情報網がある。 日本軍による大虐殺があったどころか、まったくその逆で、日本軍の進駐により治安が回復し 「安全になった」 ことが分かったから、続々と郊外へ避難していた人たちが、戻ってきたと考える方が自然で、論理的です。
私たちが教わった 「南京大虐殺」 など、本当は、なかったと考えるのが論理的ではないでしょうか。
そのことを( ※ 南京大虐殺などなかったことを )、日本を敵視して止まない欧米列強が証明しているのが、上記にあげた報告書です。
なぜ、こんな簡単なことを、学校で教えないのかが、不思議でならないのですね。
中国人少女の物売りに兵隊帽をかぶせて戯れる日本兵 (昭和13年2月)
周りにいるのは、中国人
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