南京大虐殺の真実 7 正しい中国の歴史

On 2013年8月31日

 

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正しいシナの歴史 

( ※ 中国人が使う国際呼称:SINA )

 

様々な歴史の本を読むとき、その全てに 「中国」 の歴史が如く書いてあることが、まず間違いの元なのです。

私たちは、昔から 『中国』 という国があったがごとく錯覚してしまっているのです。

正確に 『 支那 (しな) 』 と書いていれば、歴史認識を今ほど大きく勘違いすることはなかったでしょう。

 

そしてもう1つ。

 

昭和中頃までに生まれた世代には、「 中国4000年の歴史 」 というラーメンのCMがテレビで繰り返して流されていたため、中国には4000年の歴史が 「連綿と続いている」 がごとく頭の奥底にしっかりと残ってしまっていることが、歴史認識の誤りの出発点ではないでしょうか。

実は、中国は、正式名称  『中華人民共和国』  と言って、60年の歴史しかない国なのです。

「 いや、それは嘘だ!」  という方に妥協するため、もう少し伸ばしましょう。

100年で、手を打ちませんか?

100年前、清帝国を、日本が援助した孫文 たちが倒して中華民国が出来ましたので、歴史の長さを100年にしました、いかがでしょう?

 

妥協できるのは、ここまでです。

 

実は、中国の前身といわれている清国とは、今の中華人民共和国 (漢民族支配) とは全く異なる、満州エリアに住んでいた 満州人 (女真族) と、その勢力下に入ったモンゴルとの連合によって漢民族支配の明国   (モンゴル帝国 (元) を支那から追い出し設立した国)  を倒し、満州人の勢力範囲を支那全域にまで広げ、漢民族を支配下に組み入れた国なのです。

  満州人の支配下にあった清国では、満州人は 、( 人間として問題の多い ) 漢民族との同化は認めない政策をとり、満州人とモンゴル人の結婚は認めたが、漢民族との結婚は認めなかった。 

漢民族は単に、満州人に征服されていただけなのです。    ( ※ 戦後、中国は、自分たちを征服した国 (清国) のエリアまでもが  「かつてからの自分の国であった」  と無茶苦茶な論理を展開し、世界に向かって言い張っている )

 

 

元とは

モンゴルとは、かつて 『 元 』  (国名:大元)  と呼ばれ、中央アジアのモンゴル高原を中心とした広大な地域に存在したモンゴル諸語のモンゴル語などを話す遊牧民族が始まりの国である。 

ユーラシア大陸を席巻し、アジアからヨーロッパまで歴史上最大規模まで版図を広げ、その勢力範囲の一部として、北宋が崩壊し戦乱にくれていた漢民族を征服し支配した国です。 

元が(漢民族が支配する)明に敗れ撤退(北走)したことで、漢民族はモンゴル人の支配から解放されたのです。   ( ※ 私たちが授業で習った歴史とは異なり、史実は、元が支那から撤退しただけであり、元が滅んで明に引き継がれたのではない)

なお、九州を襲った元軍  (元寇)  が、鎌倉幕府崩壊のきっかけを作ったことは、皆さんも歴史で習ったことと思います。    

※ 元寇(げんこう)の主力部隊は、実は、元に支配されていた朝鮮人であった。  ・・・ 朝鮮人たちが、元に日本侵略をささやきけしかけ主力として実行たことが、最近の研究で分かってきた。 

日本を侵略しようと襲ってきたのは、実は朝鮮人だったのです。

対馬と壹岐の住民を生きたまま拷問にかけ地獄の苦しみを与えながら殺し、女とみれば寄ってたかって死ぬまで強姦した。また、生きたまま船の舳先(ほさき)に磔(はりつけ)にし、日本に向かい鎌倉武士の度肝を抜こうとした。

日本は、この時から、日本の安全保障上、日本に隣接し支配国次第で日本を喜んで襲う「残虐な性質を持つ朝鮮人」とその後ろに控える朝鮮の支配者・支那(※明治期に入ってロシアも)の動向が、もっとも重要な位置を占めるようになったたと思われる。 

単独では全く日本に歯が立たないが、支配国次第で、いつ、日本に牙をむくか分からないのが朝鮮人。

ついでながら、豊臣秀吉の朝鮮出兵の目的は明 (支那)の平定であり、道すらまともに作れない朝鮮はその通り道に過ぎなかった 。

 

 

満州国とは

満州国は、かつては後金と呼ばれ、中国東北部にある、朝鮮半島の根元の辺りから延びる万里の長城で遮断された外側、関外に位置する、東夷、北夷と言われる場所にあり、従来の支那の概念では中華圏には含まれず、万里の長城の東端の関所より東にあることから 「関東」 と呼ばれたエリアに存在した満州国に住む満州人 (女真族) の国である。

( ※ ちなみに満州に展開した日本陸軍精鋭部隊 「関東軍」 の呼び名は、ここからきている )

歴史的にも、万里の長城の外にあり、支那人 (中国人・漢民族) はそこに行くことを嫌い、「 中国の領土ではない 」 と支那人が断言し、そこに行くことを忌避し続けてきた土地に住む、漢民族とは異なる 『満州人 (族) 』 が営んできたのが『 満州国 』という国なのです。

 

 

 画像はクリックすると綺麗に見れます

シナ81

 

 

シナ8217世紀のアジアの地図

 

地図下方に広がる明が、現在の中国にあたる。

朝鮮半島の根元付近の左にある遼東の下からルファン (左すみの真ん中) の方角へ延びている凸凹の線が 「 万里の長城」  であり、万里の長城より下(南側)の、漢民族が支配した明の地域が、本来、漢民族が支配する今の中国が主張できる固有の領土。

漢民族は陸の民族であり大陸内での拡大を画策、台湾や琉球そして島嶼などの海の外や万里の長城の外側 (北方) は  「 化外の地 」  (けがいのち) として嫌い、侵出しなかった。

「 自分たちの領土ではない 」 と漢民族が断言していた万里の長城の外にある、朝鮮半島の上方に位置する後金  ( 女真族 (後の満州人) の国家で清国の前身 )  から上の地域に満州国はあった。

よって、漢民族支配の中国政府が、「 中国の領土である満州を日本が侵略した 」  というのは、中国が大東亜戦争後に侵略し併合した国を、元々自分の国であったとの虚構を世界に発信しているだけであり、脅せば謝る日本からのお金目当てと、領土拡大の野心に燃えた言いがかりでしかない。

 

 

再 確 認

シナ人は陸の民であり、海の外も 「化外の地」 であった。

そう、沖縄 (琉球) も、台湾も、もちろん尖閣諸島も・・・

その事実を知っていながら、日本のメディアは、ひた隠す。

 

 

満州国のあった地域は、19世紀終盤、南下してきたロシアの勢力圏内となりましたが、日本が、(ロシアの手先とならぬよう)韓国の独立を守るために国の存亡をかけてヨーロッパ最強の軍事大国ロシアに対し起こした日露戦争で勝利し、ロシアの勢力を駆逐することに成功。

日本が一部権益を取りながらも、清国に返上してあげたエリアだったのです。

しかし、その後、日本が支援した孫文らによる辛亥革命で清国が倒され、新たに漢民族支配による中華民国が成立。 

中華民国は日本を騙し、ロシア(ソ連)と結んで満州権益をロシアに渡そうと画策し続けたためロシアの勢力が浸透。  日本は、祖国防衛の観点からも特殊権益を守ろうとし、また満州国を、本来の満州人による独立国として維持することで  「共産主義勢力  への緩衝帯」  とすべく、満州事変となったのです。

 

 

当時の世界常識

※ 当時は 「帝国主義」 が王道であり正義であった。領土を拡大し軍事的に強くない限り侵略され植民地とされてしまうことが、世界の常識。「 軍事強国(先進国)が弱小国・遅れた国を侵略し植民地となし指導することが正義 」 であった時代、日本も、狭い日本国内に小さくまとまり軍事力も最小限で、小さいままに止まっていては、いつ、欧米列強の魔の手に国土が蹂躙され、白人国家の植民地とさせられ、国民が白人たちの奴隷となるやも知れぬ時代背景の中、祖国を守るため、そのために近隣アジア(東アジア)を守るため、立ち遅れ、白人国家に蚕食(さんしょく)されつつあった東アジアを発展させ協力し合い、欧米列強並みの地域とすべく、日本国内 ( ※ 特に立ち遅れていた東北地方 ) の発展を犠牲にしてまで、援助を行った。

 

 

日本は、「満州人による満州国の再建」 を日本の血税で支援し、清国滅亡に伴い王位を失った満州国の正当な王位継承者である溥儀を皇帝に頂き、天皇一族の妃が嫁入りし強固な姻戚関係を築き、全ての執政・官僚組織を満州人に任せ、日本は満州人が行うことが出来なかった現場作業の指導や防衛だけを担った。

満州の真実の歴史は、日本の財政を含む助力により、教育制度の確立、治安の回復、日本人入植者による荒れ果てた大地の開墾 (※  中国人(漢民族) にとっては化外の土地であり、ほとんど入植していなかった。  清国時代は政策として、漢民族の入植はさせなかった ) 、大小様々な工場や商店などの資本誘致、鉄道・道路などのインフラの整備が行われ、豊かで平和な国づくりが成し遂げられ、「奇跡の発展」と称(たた)えられ、中国・韓国、モンゴル、そして日本などからの移民で毎年人口が100万人ずつ増加するようになった。

日本が敗戦を迎え、連合国に占領されたのち、中国人(漢民族)が 「我が領土である」 と言いがかりをつけてきた近代史があります。

 

 

シナ61大連(満州国) 近代的で美しく清潔な街並みであった

 

 

日本の敗戦後、ソ連軍が侵攻し、ソ連軍に支援された中国共産党八路軍が支配するようになり、共産中国に併合されてしまいました。 

共産党軍は、経済的にも、技術・教育面でも、人的にも、中国でもっとも豊かとなった満州を手に入れることで力をつけ、支那全域を支配することが可能となったのです。

共産党軍により支那全域が支配されるようになると、日本によって中国一豊かなエリアとなった満州国を漢民族のものとするため、満州国から満州人を強制的に追放、漢民族を大量に入植させ、満州人の女性は漢民族と強制的に結婚させ民族浄化を図り、今では満州人の歴史も文化も言語すら破壊され、独立国であったことを知ることが出来ない、単なる中国東北部になってしまったのです。

学校では一切教えず、マスコミも一切報道しないため、私たちは全く知りませんでしたが、日本が援助し豊かになった一つの国が、戦後、中国共産党の欲望の餌食となり、滅亡させられていたのです。

清国とは、実は、このような歴史を持つ、満州人が支那(漢民族)を支配した、今の中華人民共和国とは全く関係のない国です。

 

 

中国の近代史概説

300年続いた清帝国でしたが、

1839年11月3日、イギリスによる麻薬の密輸を清が拒否したために始まったアヘン戦争で北京にまで攻め込まれ敗け、多額の賠償と香港の割譲、上海をはじめとする5つの港の開港を認めさせられました。 

その後、第2次アヘン戦争にも負け多額の賠償及び利権の譲渡が行われ、西洋列強にも多くの利権を与えることとなってしまいました。 

しかし局地戦であったため、まだまだ西欧列強からは 「眠れる獅子」 と畏れられていました。

しかし、

1895年から始まった日清戦争で清が敗北する様子を見た西欧列強は、1896年から1898年にかけて勢力分割を行い、北からはシベリアを征服したロシア、南西からはドイツ、フランス、イギリスの分割が取り決められたのです。

清帝国は、急速に力を失くし、民政は乱れ、内乱が頻発、

1911年、日本が官民挙げて支援し続けてきた孫文(漢民族)たちによる辛亥革命によって滅び、『漢民族』 が支配する中華民国が設立されたのです。

 

私たちは漢民族が昔から中国を支配してきたと信じてきましたが、実は、今中国を支配している漢民族とは支那全土に居たわけではなく、元々は支那の中原地方に居た一地方民族に過ぎないのです。

 

また、清が倒れて中華民国が出来た戦争を 「辛亥革命」 と呼んでいるので、革命により政権が転覆したのだと私たちは理解してきましたが、これも全く違います。

まったく違う異民族により、まったく違う国が、新たに設立されたのが辛亥革命であり、中華民国 ( ※ その後、共産主義勢力が国内戦で勝利し中華人民共和国となった )なのです。

 

支那の歴史をひも解くと、満州人が後金国を建国し、モンゴル人と連合王国をつくり、モンゴル帝国 (元) の後継国家として万里の長城を乗り越えて明を滅ぼし、支那を征服して清を名乗った。

その後、西の草原帝国であったジュンガル帝国と征戦を繰り返しこれを滅ぼすと、ジュンガル帝国支配下のチベットをその勢力下におさめた。

清国でのアジア諸民族の地位はそれぞれ違っており、モンゴルは盟友でチベットは教王領として、新疆のウイグルとともに、いわゆる外様大名の位置にあった。

そして朝鮮は、属国 (属藩の立場) であった。

また琉球国は、交易のための方便として日本と清の間に立ち、双方に対して朝貢外交をしていた。

1912年、日本が援助した孫文による辛亥革命が成功し、多民族、多文化の清国が崩壊、中華民国 (漢民族支配) が設立されると、民族と国家の問題が噴出した。 新帝国が倒れたシナには、絶対権力者が不在となり、その権力不在の空白状態をついて各地に軍閥が割拠し馬賊、匪賊(強盗の集団)が跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)し、シナ全土で内乱の極みの状態が続いた。 当然、チベットやウイグル、モンゴル、満州は、完全なる独立国に戻り、支那各地でも勢力争いの抗争が頻発、騒乱状態となってしまった。

共産党軍や国民党軍をはじめ、シナ全土で略奪暴行強姦や虐殺が繰り広げられ、それはまさしく地獄絵図そのものであったという。

ちなみに国民党軍とは、蒋介石が築いた、欧、米、日の資本が集中する国際都市・上海を牛耳る宗一族の資本力をバックに他勢力を圧倒する軍閥(ぐんばつ:強盗集団が巨大化するとこう呼ばれる)のこと。 

近代国家(中央集権)を作れなかった中華民国は、国家の統一ができず、各民族、各党、各派に別れ混乱、北洋軍閥や西南軍閥などによる権力闘争も起こり、主だった政府だけでも北京中央政府、広東政府、南京政府と3つもあり、それぞれが正当性を主張し、戦闘が繰り広げられ殺戮が繰り返された。  清帝国崩壊後に起こった民族問題や、中華民国の 「国の形」 と 「国づくりの方法 」、 「権力分配」 と 「資源分配」 そして 「権益分配」 などの諸問題から、それぞれの政府内でも、各派各系の勢力による集団的武力行使が行われ、匪賊・馬賊が闊歩し、40年に渡る中国の内戦と混乱がおこったのである。  各地で起こる無数の戦乱・争乱の中、人々は虐殺と強奪と拷問と強姦と放火におびえ、農地は荒れ果て住む家を失くし、飢饉が慢性化し餓死する者が続出、人が人を喰うことが当たり前となり、日本軍などが進出している外国人租界に住むことが支那人の夢となった。

 

 

 

戦争への流れ

清帝国滅亡後のシナはいくつもの支配者が並び立つ、騒乱状態となった。

支那に利権を持ち、交易のための居留民(民間人)が居る西欧列強と日本は、自国民の保護と正当に得た権益の確保、騒乱状態を平定する為にそれぞれ都合の良い政府と国際条約を結び、治安のための軍隊を置くことになった。

各国は駐留している軍隊を使い毅然とした態度で臨んだが、日本だけは「平和外交」の名の下、軍による治安維持活動及び邦人保護の行動を却下、「話し合えば分かる」などと軟弱外交に終始した。

その延長線上に、日本政府の「平和外交」を口実とした弱腰外交により、 「日本は何もできない軟弱国家」 と見た中華民国と中国共産党勢力の国際法を踏みにじった日本に対する違法行為が頻発し、多くの日本人民間人のみが、強姦され、拷問を受け、財産は強奪され、虐殺された。

日本政府は、「通州事件」など、多くの在留邦人が虐殺され財産を強奪されても、惨たらしく強姦されなぶり殺しにあっても、我慢に我慢を重ね(?) 『平和外交』 という名の無責任外交を続けた。

( ※ 欧米諸国の白人に対して残虐行為をやると、毅然とした態度で軍事的に応戦されることを身にしみて分かったシナ人は、白人に対しては残虐行為をしなくなった )

 

シナ人によって起こされた大きな事件だけでも、義和団の乱 ( ※ 清朝末期 ) ~ 南京事件 (支那人による在留外国人の虐殺) ~ 第一次上海事変 (日本人租界を狙った攻撃)~ 盧溝橋事件  ( ※ 演習のため実弾を装備していない日本軍が支那軍により攻撃された) ~ 通州事件  (日本人民間人の大虐殺) ~ 第二次上海事変  (日本人及び日本軍のせん滅を画策した大規模攻撃)  が、支那人によって起こされた。

ドイツ軍の支援による無敵要塞 (ゼークト・ライン) の完成。ドイツ軍顧問団により鍛えられドイツ軍により支給された最新兵装で武装した国民党軍の精鋭3万により上海の日本人租界が囲まれ、日本軍(3千)および在留邦人がみな殺しの危機を迎えた第2次上海事変勃発に、やっと重い腰をあげた日本政府は、ついに、軍事行動の許可を出す。

それでも日本軍は 「国際法」 に基づき、在留邦人 (仕事で支那にいる民間人) の保護を目的とした 「自衛のための戦闘」 を続けた。

結果、米・英が軍事支援を強化したシナ国民党軍の策略にまんまとはまり、引きずられるようにして戦線を拡大させられ、南京事変~重慶爆撃~仏領インドシナ進駐~日中戦争へと泥沼化してしまった、というのが正しい歴史の流れなのです。

 

真実の歴史とは、私たちが歴史で学んだような 「平和な国、中国」 へ、日本軍が侵略戦争を仕掛けたのではなかったのです。

 

それでは、南京大虐殺のトリガーを引くことになった歴史の流れを、正確に確認していきましょう。

 

 

 

 

 確認すべき動画

 

ノモンハン事件の真実   (9分)

http://www.youtube.com/watch?v=pDjlwjyDQmk

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

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