公職追放令により 「教育界に復帰」 した人間たち

On 2013年8月29日

 

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ほんの一例ですが


南原繁
戦前、「神よ、日本の理想を生かすために、ひとまずこの国を葬ってください」と語り続け、東京大学を追放されていた。戦後は東京大学に復帰し、総長の地位まで上り詰めた。また、「全面講和」を主張し、「非武装中立論」を唱えて、首相の吉田茂から「曲学阿世の徒」と罵られた。当時、「全面講和」とはソ連の影響を望み、「非武装中立論」とは、ソ連に進駐してきて欲しいという意味であった。

矢内原忠雄
立派なキリスト教徒と言われるが、支那事変が始まった昭和一二年に、講演会で「日本の理想を生かすためにひとまずこの国を葬ってください」とのたまって東京帝国大学を追放された。戦後、復職し、東京大学の総長となった。

大内兵衛(ひょうえ)
昭和一二年、コミンテルンの呼びかけに応えて日本国内に組織された「人民戦線」に連座。第二次人民戦線運動に大きく関わり東大の経済学部の教授を辞めさせられたが、敗戦後に東大に復帰し、昭和二五年、法政大学総長になる。日本の経済政策の中心に位置し、吉田首相から大蔵大臣への就任を打診されたこともあり、彼の息のかかった学者、官僚、マスコミ人は数えきれない。

彼の書いた論文の主要部分です。

「 ロシアの経済学 (※ 共産主義) は20世紀の後半において進歩的な特色のある学問として世界の経済学界で相当高い地位を要求するようになるだろう。  (中略)  こういう歴史の変革のうちに経済学者としていよいよその光彩を加える名はレーニンとスターリンでありましょう。」   (『 社会主義はどういう現実か 』  岩波新書)

 

滝川幸辰(ゆきとき)
京都大学で無政府主義的な刑法の教科書を書いたために辞めさせられた。帝国大学で無政府主義の刑法を教えるわけにはいかないので、文部省が教科書を書き換えてくれと言ったのに、それを拒否したので辞めることになった。   彼は弁護士になったが、日本の敗戦後は、GHQの公職追放による利得を得て、凱旋将軍の如く復帰した京都大学では法学部長、そして、大学総長にまで上り詰めた。   滝川と共に辞職させられた京大の教授たちの多くは、戦後、立命館大学総長など様々な大学の要職に就き、栄達し、教えを広めた。

彼の書いた刑法の教科書の主要部分です。

「 犯罪は国家生活のアンバランスから起る。  それなのに国家が刑罰を科するのは矛盾である。  犯罪はいわば国家の受ける刑罰である  」   

要は、犯罪者が 「善」 になり、それを取り締まる側が 「悪」 になる論法を主張したのです。

都留重人(つるしげと) 

一橋大学学長にまでなった彼は、コミンテルンの手先であったことを告白している。

旧制高校時代からの左翼活動が原因で日本の大学への入学が許されず、アメリカのローレンス・カレッジでコミンテルン最強のスパイであったハリー・デクスター・ホワイト ( ※ のちに 「ハル・ノート」 を執筆し、コミンテルンの指示通り、日本をアメリカとの戦争に引きずり込んだ張本人 ) に学ぶ。 GHQ占領下の昭和22年、片山哲内閣の下で経済安定本部次官となる。   昭和23年東京商科大学 (一橋大学) 教授となり、昭和47年から一橋大学学長。   昭和50年退官し、朝日新聞社論説顧問、明治学院大学教授を歴任し、「 左翼思想 」 「 日本の誤った歴史 (自虐史観) 」 の拡大に大きな影響を及ぼした。

雑誌『 世界 』 (1960年1月号) の座談会で、今後の社会主義の拡大見通しを語っていますので、一部抜粋して掲載します。
「 資本主義社会が、だんだんみずからの範囲をせばめられていくにつれて、なおさらのこと世界史的な圧力のもとに漸進的に社会主義に平和移行する可能性も強くなる。   そういう形で、この20世紀の後半が進んでいくという見通しを私は持っている。」

彼の絶大なる影響下で、戦後、一橋大学の左翼礼賛(さよくらいさん)の方向性が決まった。


このほか、共産主義革命を熱望し、時には破壊活動まで計画、実行し投獄されていた人間たちが、大学総長を筆頭とする教育現場、主要な新聞や雑誌などのマスコミ業界に数多く復帰もしくはGHQの命令で支配者として要職に入り込み、絶大なる影響力を行使し、今でも教育界・マスコミ界は、その教えを受け継いだ人間たちだけがその人脈により出世し、実権を握り、支配をし続け、日本人の考え方や生き方に大きな影響を与えている。

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

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