ビルマ (ミャンマー) の歴史

On 2013年8月22日

 

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インドやミャンマー、東南アジア諸国を侵略し、アジア人を奴隷として酷使し搾取したのは欧米 (白人) であり、日本は 「アジア解放」 という歴史的な戦いを白人国家群に対して果敢に挑み、「アジアを開放する」という大義を果たすことができたが、どう猛で狡猾な白人国家・アメリカに戦闘では敗れた。 

その結果、アメリカにより大東亜戦争の大義が歪められ、嘘の戦史を私たちは教えられた。 

GHQとそれに媚びた日教組と便乗した左翼、そして左翼に乗っ取られたマスコミによって戦後の歴史教育・歴史認識がひんまがったままであるように、日本人のミャンマー認識も間違ったままなのかもしれない。

 

大手新聞社はどう見ているのか

保守系で「 最もまともな記事を書く 」産経新聞(H25年6月17日)の記事より引用します。

「 ミャンマーは、およそ135もの民族で構成される多民族国家であり、この国の発展には、少数民族武装勢力を含む国民和解の達成がカギを握る 」

多民族、多宗教国家 (と私たちが信じている) ミャンマーの実態を確認する。

 

ミャンマーの位置づけ

ミャンマーは 天然ガス や 石油、鉱物資源 が豊富で、インド、中国、東南アジアの中間地点に存在することから輸送拠点の要になりうる土地である。 マラッカ海峡を迂回する陸路としての開発も、東南アジアの覇権を目指すシナが主体となり計画進行している。

日本は、戦勝国アメリカに迎合しすぎた為、先人たちの命をかけた偉業を踏みにじり、親日国家・ミャンマーを見捨てた。

 

ビルマ侵略の歴史

イギリスによるビルマ国の領土化

ビルマ国の資源強奪を狙う欧米列強は、( 単一民族 (ビルマ人) で構成されていた ) コンバウン朝の拡大主義に因縁をつけた。

3度に及ぶイギリスとの戦い(1次1824~26年、2次1852年、3次1885~86年)によって、ビルマ国は、完全にイギリス領インド帝国の1州となってしまった。

イギリスは、ビルマを支配するに当たり、歴史ある国王のもと臣民が団結して横暴なイギリスに反抗する危険性を除去するべく、狡猾な策を練った。

ビルマ最後の王ティボーは囚人のごとくインドに追いやられ、王子は処刑、王女は英軍のインド兵の愛人にさせられ貧困の中で死に、王女の娘は「最貧困層に身を落とし、造花を売って生計を立てる生活であった」という。 

おとなしいビルマ市民がこの王家の悲劇を語るとき、本当に怒りで唇を震わせる。

また、イギリスによる狡猾(こうかつ)な分割統治により、多くのビルマ族は軍人、警官、官吏の職に就くことを許されず、小作人として下層階級の地位に押し込められた。

 

 

 イギリスの植民地政策

イギリスは、マンダレーの王城を監獄に作り変え、王国は当然ながら英国領とした。

クラウゼウィツは 『戦争は高度な政治手法』 と格好をつけるが、有色人種に対しては略奪と虐殺、強姦による民族淘汰を合法化する口実でしかなかった。

 

仏教を信じるビルマ人の国 『ビルマ』 を征服したイギリスは、すぐに大量のイスラム系インド人とシナ人を入れて商売をやらせた。 印僑には金融を、華僑には商売をさせた。

さらに信仰心の厚い仏教徒であったモン族、カチン族など周辺の山岳民族を山から降ろしてキリスト教に改宗させ、彼らに警察と軍隊を構成させた。

単一民族、単一宗教のビルマはこれによって多民族、多宗教国家に改造され、この国の主だったビルマ人は最下層の農奴に落とされてしまった。

 

かくしてビルマは、白人の為に作られた国際法に基づき合法的に英植民地にされ、アッサムのお茶からエナンジョンの石油、豊かな天然ガス、モゴックのルビー鉱山もイギリスのものになった。

 

しかし、ビルマは敬虔な仏教徒ビルマ人の国だった。  王家という心棒を抜いてもビルマ人の民族意識は残り抵抗は続いた。

イギリスはアメリカの侵略史に学び、リンカーンのインディアン族長殺しをまず行った。 知識層や小さな村の指導者まで殺した。 アウンサンの祖父もこの時に殺されている。

次に、ビルマのインド化を図った。

インドは人種も言語も多様であり、宗教もイスラムやヒンズー、シーク教徒と多様であった。

イギリスは、それをことごとく対立させることで数千人のイギリス人が4億のインド人を支配することに成功した。

インド紙幣に今でも15の言語が書かれているように、イギリスはインドに統一語を持たせなかった。

日本軍のおかげで共通語を持ったインドネシア人はすぐ団結して、戦後、再度侵略してきたイギリス・オランダ連合軍を多くの犠牲を払いながらも追い出した。

4億のインド人が団結できなかったのは、この統一言語を持つことができなかったからである。 インド人は団結を忘れ、あれだけ搾取され強姦され虐殺されたにもかかわらず、今でもイギリスに楯突く気持ちを持たない。

ここからも分かるように、植民地を支配するには、多民族・多宗教国家が理想的なのである。それでビルマにイスラム系インド人60万人を入れ、華僑も呼び込み支配させた。

( イギリス人は間接支配をすることで、少数のイギリス人でビルマを支配できただけでなく、ビルマ人は直接支配している華僑を憎み殺し合うが、イギリス人に対しては、心の奥底では憎んではいても表面上はあまり憎まれなかったばかりか尊敬すらされていた )

パゴタ(仏塔)しかなかった国にモスクが立ち、赤寺(唐の寺)と教会がその隣に並んだ。

「 1950年代、首都ラングーンの人口の61%がイスラム系インド人とシナ人で、以下イギリス人やキリスト教化したモンなどが続き、1/3がビルマ人だった 」 ( ファーニバル イギリスの歴史家 )

 

 

ビルマ独立への歴史

ビルマ人の対イギリス独立運動は、第1次世界大戦中に始まり、世界恐慌後、若い知識層の間に広まった。

 

1930年、タヤワディ地方で、農民が武装蜂起を行い下ミャンマーまで広がるも鎮圧。

タキン(主人)等と呼ばれる学生を中心とする団体の民族主義運動が活発化。

 

イスラム教徒と仏教徒がぶつかり3000人の死者を出す。  イギリスの目論み通りとなった。

 

1937年、バー・モウを首班とする最初のビルマ人の政権が成立。

インドから独立、イギリス連邦内の自治領となる。

 

1942年、アウン=サンがビルマ独立義勇軍率いて日本軍と共闘しイギリス軍を駆逐。

独立義勇軍には、アウン=サンやネ・ウィンら伝説の30人志士が参画した。

 

1943年、日本の後押しでバー・モウを元首とするビルマ国が建国。

 

1945年、日本の敗色が濃くなったため、ビルマ国を存続させるべく、イギリスの 「独立保持」 の甘言に従いアウン=サン率いるビルマ国民軍は、日本とビルマ国政府に対してクーデターを起こし、イギリス側に寝返り、反ファシスト人民自由連盟(AFPFL)を結成、日本の支配に抵抗を開始した。

これは、アウン=サンが日本を裏切ったのではなく、弱小国が生き残る為の苦肉の策であった。

 連合軍がビルマを奪回すると、ビルマ国政府は日本に亡命。 

日本軍に勝利はしたものの、イギリスは独立を許さず、再びイギリス領となった。

 

1947年、イギリスは、アウン=サンに指導されたAFPFLと交渉し、ビルマの独立を認める協定を締結。

 

1947年、イギリスの策略にはまったウー・ヌーが、自分を暗殺しようとした仕返しとして、『 ビルマ国王亡き後の国民的英雄 アウン=サン 』を暗殺させた。 

イギリスのついたウソに、ウー・ヌーは引っかかったのである。

アウン=サンに反感を持つイギリス将校の策謀によって、32歳の青年アウン=サン以下ビルマ救国の志士6名は、ウー・ヌーの放った暗殺者の凶弾に倒れた。

 

1948年、イギリス連邦を離脱し、ビルマ連邦として独立。 初代首相に、AFPFLを率いるウー・ヌーが就任。

しかし、独立直後から (イギリスの支援を受けた) カレン族が独立闘争を行うなど、ビルマは不安定な状態に置かれた。

 

 

1949年、国共内戦に敗れた残虐非道なシナ国民党軍の乞食の様相を呈した残余部隊がシャン州に侵入し、雲南省反共救国軍としてゲリラ闘争を開始。

ヌ―政権は、アメリカのCIAが、シナ国民党軍の残余部隊に対して、物資や軍事顧問団を援助し、またタイへのアヘンの運び出しまで行っているとして、国連で中華民国と米国の策動に抗議。

 また一方で、シャン州に国軍部隊を展開し、1950年代半ばまでに国民党軍を一掃した。

 

1950年代、ヌ―首相の「ビルマ本来の国教である仏教」優遇政策は、イギリスの植民地支配のため策謀によりキリスト教徒の割合が多くなった、カチン、チン、カレンなどの民族の反発を招くようになる。

また、英米の策動により、独立を求める民族勢力、国民党軍、共産党勢力との武力闘争の過程で、国軍が徐々に重きを置かれるようになり、ネー・ウィン将軍が政権を掌握する下地となった。

 

1958年、反ファシスト人民自由連盟が分裂、ネー・ウィン参謀総長を首班とする選挙管理内閣が成立。

 

1962年、シャンやカチン族の分離独立運動が激しさを増し、国内が騒乱状態となった為、ネー・ウィンがクーデターを起こし、憲法を停止し、革命評議会を発足させ全権を掌握、軍政を開始する。

ネー・ウィンは、ビルマ人によるビルマ再建の為、最貧国になる覚悟を持って荒療治に打って出た。 戦前の日本で見聞した統制経済を見本とし『ビルマ式社会主義』を標榜。 鎖国をして華僑の儲け口をつぶした。同時に、銀行預金を制限し一定額以上は没収した。高利貸しのインド人は驚いてタンス預金に切り替えた。彼はそこでデノミをやり、新札を出して旧札は無効とした。  インド人が両替にくると上限を設けてそれ以上を没収、デノミは毎年のように行われ、そのたびにインド人の資金は没収された。  

経済統制政策を実行することで計画経済の障害となる印僑・華僑の経済活動を徹底的に抑えこみ、同時にビルマ社会主義計画党(BSPP)による一党独裁体制を敷くことに成功した。 

完全に干上がった印僑(インド人)と華僑(シナ人)は、ビルマから出て行った。

「ビルマ人は自ら貧しくなる」という苦痛の多い、しかし、誰も傷つけない方法で植民地の後遺症を取り除いたのである。

 

1988年、国民的規模の民主化運動がおこり、ネー・ウィンが党議長を辞任し、ネー・ウィン独裁体制が崩壊。 ソウ・マウン将軍が国家法秩序回復評議会(SLORC)を設置。 この英米嫌いの軍事政権は総選挙を公約し、民政移管までの暫定政権として発足。

国民民主連盟(NLD)は、アウンサン・スーチーを書記長にし、イギリスが裏で糸を引く、民主化運動を活発化させだした。

 

1989年、暫定政権は国名をビルマからミャンマーに替え、首都名もラングーンからヤンゴンに改称。

アウンサン・スーチー書記長を国家破壊法違反として自宅に軟禁し、政治活動 を禁止させる。

 

1990年、総選挙では、イギリス植民地時代に利益を受けた少数民族や華僑をバックに「民主化」を旗印にしたアウンサン・スーチーが勝利をおさめたが、軍事政権はイギリスの狡猾な策略を嗅ぎ取り、民政への移行を拒み、スーチー女史を軟禁、イギリスはアメリカと語らって大々的に国際的な批判を作り出した。

 

1991年、ノーベル平和賞(※ 白人支配に都合の良いように受賞者が決められ、世界で称賛されるように仕向けてきた)が、民主化運動の指導者であるアウンサン・スーチーに授与された。 

 

イギリスによりズタズタにされたビルマは、戦後、旧植民地が喜んで入る英連邦の加盟を拒み、さらにイギリスが残した文化も処分していった。

まずイギリス式の左側通行をやめ、英語で行われていた大学の授業をやめ、外語大の英語も廃止した。 英語は禁止したが、日本語学校は何十とある事実を私たち日本人は知らなくてはいけない。 英語は話せないが、日本語は話せる人が多い。

 

国民もイギリス嫌いだからイギリス色の脱色はスムーズに行われた。ちなみにその穴は「日本」で埋められた。

街角の国父アウン=サンの騎乗姿の像は、昭和天皇のそれを模したものである。

夕方、テレビ放送が始まる時は「海ゆかば」など日本の軍歌がメドレーで流れていた。 テレビドラマでは、日本軍兵士が勇敢で優しい善玉として出てくることが多かった。(※シナのテレビとは真逆である)

 

それだけでは、無く、

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インパールを元に戻し賠償せよともイギリスに迫った。

国連を通じてイギリスがビルマから奪ったものの返還も訴えた。

イギリスは奪った国王の玉座をしぶしぶ返したが、戻ってきた玉座は穴だらけ。はめ込まれたルビー、ダイヤなどの宝石はすべてイギリス人に盗られていた。

ビルマはイギリスの植民地統治の責任も国連の場で糾弾を始めた。 その中にアウン=サンの暗殺もあった。

ビルマがそのように騒ぎ続けると、他の(日本人の死に物狂いの戦いと「八紘一宇」の精神に基づく様々な援助によって独立を勝ち得た)元植民地国家も、やがては騒ぎ出すことは明らかであった。

欧米による植民地支配の真実が明るみに出れば、東南アジアで残虐行為と略奪をやったのは日本ではなく、白人国家であったことがバレてしまう。

そのようなことになれば、せっかく行った『 東京裁判 』の意味も失う。

 

かくして白人国家は、共謀しあってビルマ非難を始めた。

 

 

 アウン・サン・スー・チー

最強の手段としてイギリスは、比類なき国民的英雄アウン=サン将軍の娘スーチーを使った。 彼女は祖父をイギリス人に殺され、父をイギリスの謀略で殺された。 本来ならば反英のシンボルになるはずの15歳の少女を元ビルマ総督(イギリス人)がイギリスに連れ出し、何不自由のない環境下でイギリス人として教育し、イギリス人エリートの夫まで与えて手なずけた。

ビルマ人は戸惑った。 30年経って帰国した彼女は、英国人になりきっていたからである。

「 政治集会やデモの場合、どこの国もそうだが、ここも届け出制にしている。しかし、彼女は故意にそれを無視する。 政府がたまりかねて規制すると 『民主主義を弾圧した』 と騒ぎ立てる 」。 日本の新聞もそれに乗っかって我々を洗脳した。 

スーチー女史は、実は、骨の髄まで英国人になっていたのである。

スーチーは、父を殺し、祖国を破壊し強奪と略奪の限りを尽くしたイギリスに忠誠を誓い、イギリスに背く祖国を「自由」の名の元に非難し、「植民地支配の糾弾」をする事業をつぶした。

ビルマ人は言う、「 スーチーは、イギリスに魂を売った 」。

 英米はビルマ政府を軍事政権と非難し、厳しい経済制裁を課してビルマ発展の芽を封じた。 白人国家に楯突けばどうなるかという、日本に次ぐ、見せしめだったといえる。

 

ミャンマーは、北朝鮮のように拉致したり覚せい剤を売ったりしたことは無く、シナのように隣国チベットやウイグルを侵略し、民族浄化の名の元に強姦や拷問、大規模な原爆実験、そして大量虐殺などしたことも無い。  

テロ行為すらしたことは無い。

静かに、アンダマン海の奥で暮らしてきただけである。

そのような国をイギリスやアメリカは何十年にも渡り苛め続けている。 日本を含む親米諸国を脅してすかして経済封鎖までしてきた。

その根拠となる理由は、ただ一つ。 「 軍事政権だから 」 である。

日本の識者も、ミャンマーの軍事政権が圧政を敷く悪のごとき論調を振りまき、私たち日本人庶民たちも洗脳され続けてきた。

 

 

 軍事政権はそんなに悪いのか

悪の権化の如くの軍事政権が、なぜ、何十年にも渡って軟禁状態にあるスーチー女史を殺害しなかったのか? 簡単に、かつ隠密裏に殺害が可能であった・・・にもかかわらず、である。

軍事独裁政権にとって、マスコミ支配、マスコミ操作は「お手のもの」でなかったか?

圧政を敷く軍事政権を、なぜ、ビルマ人は支持しているのか?

軍事政権は、なぜ、ビルマ人の国であるビルマという国名を捨て、少数民族に配慮したミャンマーという国名にしたのか?

発展途上にある国では、軍隊に、優秀で愛国心にあふれる若者たちが集まることを、世界中の人たちは身に染みて分かっていながら、なぜ日本人は、知らぬふりをするのか?

日本でも、戦前は、文武に優れ、家族と故郷を愛する人たちが軍に志願し、

戦後しばらくは、防大に入れれば、東大、京大は言うに及ばず、好きな大学にいけた。
それほど優秀な学生が集まった。

その事実を、なぜか、今の日本人は知らない。

大衆は簡単にダマされ洗脳されるという、良い実例である。

 

身近な例だけでなく、軍事政権は世界至る所にある。 しかし、パキスタンを「軍事政権だから」と苛めたりはしない。しないどころかアメリカは軍事政権を大変に可愛がってきた。

イラクのフセイン大統領に対しても、アメリカにとって都合の良い間は、徹底してかわいがり、支援を惜しまなかったではないか。

 

 

 経済制裁はビルマの歩みを完全に止めた

ビルマへの経済制裁は、完全にこの国の歩みを止めた。

おんぼろトラックの荷台に鈴なりの客を乗せたバスが、雨の中、泥水をはね上げて走っている状況がまだ続いている。

貧しさに敗けて、20年前、制裁に加わっていない大嫌いなシナに支援を乞うた。

“ 英国人スーチー ” に屈するのか、“ 嫌いなシナの援助を受ける ” のか、究極の選択を迫られたビルマ人は結局、シナを選んだのである。

ヤンゴンの表玄関、イラワジ川にかかる鉄橋が中国の支援で建造された。

ネ・ウィンと国民が死ぬ思いで耐え、そして出ていってもらったシナ人が、それを渡ってわんさと戻ってきた。

王都マンダレーの街中には漢字の広告が大威張りで立ち並びチャイナタウンさながらの様相を呈している。 中国の経済植民地化にもがくミャンマーの姿である。

雪崩のように入り込んだシナ人は金融も商売も独占し、かつて独立国家だった時の首都マンダレーは、大声でわめき、痰を吐きちらし、そこらじゅうで大小便をするシナ人が闊歩する、無秩序地帯となった。

シナの支援で水力発電所はできたが、電気は中国に送られ、ビルマは毎日のように停電している。

シナの悪弊であるワイロも大いに普及した。

政治もシナ化した。  総選挙があってもポスターはどこにもない。   代わりに選管事務所の役人が戸別訪問し期日前投票させる。  投票用紙の候補者欄は空欄で有権者はただサインするだけなのである。 こうして、シナに都合の良い政党の全員当選が確定する。

ミャンマー人は、シナ人のことを嫌いながらも、シナ人に感化され、礼儀を忘れ、自分さえよければすべてよしの風潮が強くなってしまった。

 

「 沖縄の20年後を見るようである 」

 

 

 

英米の思惑通り、ビルマは腐り切った。 

もはや欧米植民地支配を糾弾する覇気も力もない。

イギリス人のスーチーは、その役割を十分に果たしたといえる。

 

 

 

 

ビルマ国、初代首相の言葉

「 われわれの多くの者が長い間さまよい、救いを求めて与えられなかった荒野から、われわれを救い出してくれたのは、東洋の指導国家、日本であった。・・・歴史的に見るならば、日本ほどアジアを白人世界から離脱させることに貢献した国はない。しかしまた、その解放を助けたり、あるいは多くの事柄に対して範を示してやったりした諸民族そのものから、日本ほど誤解を受けている国はない 」

「 真実のビルマの独立宣言は1948年の1月4日ではなく、1943年8月1日に行われたのであって、真のビルマ解放者はアトリー率いる労働党政府ではなく、東条大将と大日本帝国政府であった 」  

 バウ・モウ初代首相

 

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スーチー女史は善人か 高山正之 新潮社

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「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

 

 

 

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