日韓併合の真実⑭

On 2013年8月2日

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朝鮮人労働者の手記

日本人への徴用令は昭和14年から始まっていたが、朝鮮人の徴用令の適用は昭和19年の9月から翌年の3月までであり、終戦時、200万人居た朝鮮人のうち「徴用令」で日本に渡ってきた朝鮮人は235名に過ぎない。

その他は全て、日本での仕事を求めて自らの意志で日本に来た朝鮮人であり、主に密航してきた朝鮮人である。

ちなみに、ソフトバンクの孫正義社長も、戦後、家族で日本に密航してきた朝鮮人であり、「戦勝国人」としての特権を存分にしゃぶり尽くして財産を貯めてのし上がった、典型的な「在日成功者」一家の息子である。

球団を持っている「ロッテ」グループも、戦後、戦勝国人としての利得をフルに使ってのし上がった、在日企業である。

 

そんな朝鮮人労働者の手記が残っている

和18年、炭鉱の募集に応じて朝鮮から渡ってきた男は、【新聞広告】で求人を見つけた。

当時、理髪師として1日2円程度の収入があったが、炭鉱夫の給与は1日「7円」とあり、それに魅力を感じたという。

炭鉱夫の住まいとして廃校になった学校の校舎を利用した寮が用意されており、娯楽室もあった。

炭鉱夫の仕事は「非常にきついものがあり、現場監督から怒声を浴びせられることがよくあった」と記しているが、「日本人よりも同朋の監督の方がよほど厳しかった」とも打ち明けている。

その一方で、「生涯でこれほど本を読んだ時期は無かった」とし、寮の食堂で働いていた19歳の日本人女性と恋愛関係になったというから、“タコ部屋” などという非人間的な扱いからは程遠い。 2年後には、朝鮮に家を建てる費用として、「800円」を家族に仕送りまでしている。

※ ちなみに、朝鮮人酌婦(いわゆる「従軍慰安婦」と騒がれている女性たち)の稼ぎはそれよりも多かった。 貧しい農村の娘であったろう酌婦が、家族のために身をなげうつことは当時の日本人にとっても珍しいことでは無かったし、日本を含め世界中で「売春行為」は合法であり当たり前の行為であった。

 

 

強制労働の真実

学校の歴史教科書や朝日新聞やNHKが言うように、日本はかつて韓国の産業を収奪し、多くの朝鮮人を強制労働に従事させたのか?

韓国における産業政策の実績を確認すれば、その真実が見えてくる。

以下で、簡単に確認してみたい。

 

産業政策

韓国47水豊ダム 

昭和7年、日本人の資金と技術により北朝鮮エリアで着工、昭和19年、竣工。

当時、出力世界第2位の水力発電所。このほか各所に発電用ダムが建設され、朝鮮の工業化が推進されました。

 

新興工業都市、興南 (1942年撮影)

朝鮮窒素肥料・日本マグネシウム・朝鮮鉱業などの巨大工場が主に北朝鮮エリアに次々と進出し、世界有数の工業団地となり多くの朝鮮人労働者の雇用を吸収しました。

 

韓国50

 

強制連行による日本での強制労働があったとされていますが、実際は日本には労働力が豊富にあり、逆に、日本は朝鮮人の移入による日本本土の失業率上昇や治安悪化への対策として、朝鮮人の日本本土への流入を抑制する目的で、朝鮮半島の開発に力を入れた。

開発工事の主な労働力を朝鮮人に求めることで朝鮮における雇用を創出しただけでなく、戦前、日本全体の中で、工業化と発電などのインフラ整備が最も進んだのは北朝鮮であり、朝鮮は工業国としての大発展をみたのである。

労働力としての「徴用」については、昭和14年7月、日本国民に対してのみ開始され、適用が免除されていた朝鮮人については、昭和19年9月から昭和20年8月にかけてのみ国民徴用令が実施された。しかし実際の日本本土への朝鮮人徴用労務者の派遣は、昭和20年3月の下関-釜山間の連絡船の運航が止まるまでの7か月間のみであり、内地(日本)における、国民徴用令による朝鮮人の徴用労務者はごく少数でしかなかったのです。

昭和34年、外務省が調査した結果、日本に残留した在日朝鮮人のうち、徴用で日本に来た者は245人であり、その全ては様々な理由により日本政府による朝鮮への帰還事業を断り、自らの意思で日本に残った者たちであることが判明している。

戦後、韓国より賃金の一部が未払いであったことが問題とされたが、昭和40年に締結された「財産及び請求権に関する問題の解決並びに経済協力に関する日本国と大韓民国との間の協定」によって、未払い賃金を含めた巨額(当時、韓国の国家予算の2年分)の経済支援が韓国に対して行われ、完全かつ最終的に解決されている。

 

なお、徴用以外で日本に渡航して来た朝鮮人とは、韓国に比べ4倍~5倍という高い給料の職を求めての個別渡航や密航、工鉱業・土木事業・慰安婦(売春婦)等の正規の募集に対して自主的に応募してきた者たちであり、本人の意思に反して強制連行で連れてこられた朝鮮人は、1人たりともいなかったのです。

 

朴正熙 元韓国大統領の発言 (昭和和38年10月15日、 韓国大統領に就任。 5~9代大統領)

韓国49

 

「あのとき(※ 韓併合)、われわれは自分たちで選択したんだ。日本が侵略したんじゃない。私たちの先祖が選択した。もし清国を選んでいたら、清はすぐ滅びて、もっと大きな混乱が朝鮮半島に起こったろう。もしロシアを選んでいたら、ロシアはそのあと倒れて半島全体が共産主義国家になっていた。そしたら北も南も完全に共産化された半島になっていた。日本を選んだということは、ベストとはいわないけど、仕方なしに選ばざるを得なかったならば、セコンド・ベストとして私は評価もしている」

「石原さん、大事なのは教育だ。このことに限ってみても、日本人は非常に冷静に、本国でやってるのと同じ教育をこの朝鮮でもやった。これは多とすべきだ。私がそのいい例ですよ」 (『石原慎太郎との会話』より月刊正論平成12年1月号)

 

福田赳夫が韓国を訪問した際、酒席において日韓の閣僚たちが日本語で会話をしている最中、韓国側のある高官が過去の日本による植民地統治を批判する旨の発言を始めたところ、彼を宥めたうえでこう語っている。

「日本の朝鮮統治はそう悪かったと思わない。自分は非常に貧しい農村の子供で学校にも行けなかったのに、日本人が来て義務教育を受けさせない親は罰すると命令したので、親は仕方なしに大事な労働力だった自分を学校に行かせてくれた。すると成績がよかったので、日本人の先生が師範学校に行けと勧めてくれた。さらに軍官学校を経て東京の陸軍士官学校に進学し、首席で卒業することができた。卒業式では日本人を含めた卒業生を代表して答辞を読んだ。日本の教育は割りと公平だったと思うし、日本のやった政治も私は感情的に非難するつもりもない、むしろ私は評価している。」 (「日韓『禁断の歴史』」 金完燮 小学館より引用)   

「私は貧農の生まれで学校に通うなど思いもよらなかったが、日本人の役人が両親を説得して小学校に行く事が出来た。そしたら学校の教師がお前は頭が良いから無料の師範学校に行った方が良いと推薦してくれた。師範学校では更に優秀さを認めてくれて陸軍士官学校に推薦してくれた。その結果士官学校首席として日本人同期生のトップで卒業し、陸軍将校に成ることが事が出来た。今の私が有るのは清廉で誠実な日本人達のおかげである。」 (中曽根元首相との対談より)

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「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

 

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