日韓併合の真実⑮
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志願兵
大東亜戦争開戦2日後、昭和16年12月10日、ソウルで 「 決戦報告大講演会 」 が挙行された。その席上、張徳秀は 「 米英の圧迫と屈辱からアジア解放を叫ぶ決戦を開始したのである! 今やアジア民族は圧迫と搾取を受け骨しか残っていないが、その骨で断固として決起し、仇敵米英を打倒しなければならない!」 と演説し、この戦争は 「 アジア解放の為の戦争である!」 と力説している。
韓国における日本軍への志願者数は、私たち戦後の歴史を学んできた者にとって、瞠目すべきものがある。
『韓国人男性の軍志願状況』
日本と韓国政府は1938年から志願制で募集を行った。(この数値がその時のデータ)
昭和14年、志願者数12,348人 採用数613人 倍率20.1
昭和15年、志願者数84,443人 採用数3,060人 倍率27.6
昭和16年、志願者数144,743人 採用数3,208人 倍率45.1 (大東亜戦争開戦)
昭和17年、志願者数254,273人 採用数4,077人 倍率62.4
昭和18年、志願者数303,294人 採用数6,300人 倍率48.2
軍隊とは、祖国のためにお互いに命を預けて命がけで戦う集団であり、信用できない人間が仲間として入ることは許されない。彼らは、誇り高き大日本帝国軍人として日本兵と共に、あるいは日本兵を率いて命がけで戦ったのである。
ある者は、創氏改名をせず、韓国名のまま、将軍として、1,000人の日本人兵を率いて戦った。
ある者は、特攻隊に自ら志願し、アジア解放のためアメリカ艦船に突入、若い命を散華されたのである。
注目すべきは、朝鮮人でありながら、日本軍将校として日本兵を率い56回にもわたって戦闘指揮をとり西安では中国軍を殲滅し勲章を受章した金錫源少佐や、満州建国の立て役者ともなった白洪錫少将ほか、日本軍内部でも朝鮮名のまま活躍した将校達が多数存在した。
また洪 思翊(こう しよく)陸軍中将のように、戦後フィリピンで戦犯として裁判を受けた際、「韓国人に戻るのであれば戦勝国人であり無罪」との連合軍裁判官の甘言を潔しとせず、大日本帝国の軍人としての矜持を持ち続け、仲間(日本人・韓国人問わず)の弁護のみは積極的に行い、一切の自己弁護をせずに死刑に臨んだ、まさに誇り高き将軍まで輩出した。
彼もまた日本人名を持ってはいない。
大正3年12月、当時の首相だった大隈重信に表彰された憲兵隊員の名簿
※私たちが受けてきた歴史教育では、「創氏改名」 が強制させられていたはずであるが、しっかりと、韓国名で表彰されているのが分かる。
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「正しい日本の歴史」 (目次)
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