韓国併合の真実⑪

On 2013年8月2日

 

にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村

応援クリック お願いします!

 

 

【韓国の三法則】

一、頭の中身がファンタジー

ニ、軍国主義でないと正気が保てない

三、反日を言ってないと親日になってしまう

 

 

韓国という国は、2000年の歴史の中で常に 『中華帝国の第一の子分である』 ということにのみアイデンティティを置き、シナの支配者の覚えがめでたい王朝がシナの威を借りて「シナの属国」として朝鮮を支配し、一族郎党の私腹を肥やすことにのみ執着し、自助努力で独立しようという意思も能力も見せることがなかった。  独自の王朝を持ってはいても、独立国家の要件をまるで満たしていない。  国というより単なる地名としての価値しかなかったのである。

それゆえに、日本は倭の時代から「中国への通り道」としか見なしておらず、シナからは「単なる辺境の一部」扱いでしかなかった。

「朝鮮出兵」とよく言われるが、真実の歴史ではシナへ出兵するための通り道でしかなかった。  戦国時代を統一した秀吉は、ポルトガルやスペインの来訪によって大航海時代の実態 (※ 白人による有色人種への植民地支配) を知り、東アジアの防衛網を構築すべく『唐陣』つまり中国征伐を開始するが、その際に朝鮮はただの通り道でしかなかった。  秀吉には 『朝鮮出兵』 を行ったという自覚はなく、本人の意識はあくまで対明征伐であり、朝鮮を対等の敵とは見做していなかった。 現に、明軍が来るまでの朝鮮軍はあまりにも弱すぎて、各地で城にこもって日本軍を迎え撃ったが、日本の武将たちは戦った気がしなかっという。

この誰からも国として見てもらったことのないコンプレックスが、誇大妄想を生み出しているのである。

 

 

韓国人の歴史観はすべてファンタジー

 

 「 安重根が伊藤博文を愚かにも暗殺したことが日韓併合の引き金になったのですが、そもそも日本は植民地を持つ資格がなかったのです。  なぜか? それは日本人が朝鮮人を人間扱いするほど 『甘かった』 からです。  朝鮮を植民地にしたのなら、人間扱いをしてはならなかった。  この言葉をもって、『こんなことを言うヤツは差別主義者だ』 『右翼・民族主義の過激派だ』 などと思った方は当時の世界の常識を知らないと、自白していることになります。  そもそも植民地とは何かというと、搾取する土地です。  朝鮮半島に搾り取る資源や農作物があったのかというと、何もありませんでした。  そんな土地を生真面目な日本人は 『貨幣経済を浸透させよう』 『文明化しなければならない』 『インフラを整えよう』  『農業を振興させなければならない』 と使命感に燃え、やりとげてしまった 」

 「 今となっては、そんな恩を韓国人はすっかり忘れ去っています。 『やってもいない抗日闘争』 を建国の理念にしたことによって、歴史が矛盾だらけになり、歴史観がファンタジーだと笑われるのです 」

 

韓国人は 「反日お国自慢歴史観」 で学ぶほど、その矛盾が露呈するという。

「『反日』 は韓国の国是ですが、戦前、例えば、日韓併合が進んだ昭和19年には、日本の戦勝映画が流れると映画館中が大喜びするほど朝鮮人は親日になっていました。 あたり前です。 一緒に戦争を戦っていたわけですから。 韓国は自分の力で独立を勝ち得た歴史がない。 そのために、韓国という国の正当性を何とか持たせるため、敗戦後に 『反日』 を出発点に、ねつ造した歴史観で国づくりを行うしかなかったというジレンマがあるのです 」

「 そもそも抗日闘争を建国の理念とすれば、スターリンが指導していた抗日パルチザン (共産ゲリラ) で名をはせた金日成を英雄視するしかありません。(※ 金日成はテロ活動中に死亡しており、北朝鮮を支配した金日成はソ連が連れてきた偽物)  テロリズムを賛美し、北朝鮮という敵国の指導者が自分たちを正統に支配する権利を持っていることになる。 一方の韓国初代大統領である李承晩はアメリカで独立運動と称してカンパを集めて遊んでいただけです。 連合国に参加したわけでも自力で戦ってソウルを解放したわけでない 。何ひとつ英雄らしい行動をとっていないのです。  韓国人はいい加減、『反日お国自慢歴史観』 を卒業すべきでしょう 」

これこそが 「韓国が抱える闇の深奥」 である。

 嘘だらけの日韓近現代史 の作者 倉山満 ( 日刊SPA!より引用。  一部加筆 )

 

 

韓国の歴史概略

 

韓国の歴史に関しては、『歴史再検証 日韓併合  ‐韓民族を救った「日帝36年」の真実‐  』(崔基鎬 チェ・ケイホ 著)に分かりやすく書いてありますので、引用、要約させていただきます。 

 三国時代、高句麗(韓国人の国の一つ)は、隋・唐(今の中国)との数十回にもわたる戦争でも勝利を収め、アジアの強国として君臨していた。

大国を誇った高句麗がにわかに同化された理由は三国の中で最小であった新羅が敵対していた唐(中国)と連合して、660年に百済を、668年には高句麗を背後から攻め滅ぼし、広大な国土を唐に譲り、自らを大唐国新羅郡に甘んじたためで、それ以来、朝鮮は中国の一辺邦となり下がった。

b

 クリックすると綺麗に見れます

韓国38 三国時代の地図、5世紀終わり頃

 

およそ600年前、高麗が新羅にとってかわり、明に戦争で勝つ成算と民族の故地である中国東北部(旧満州国辺り)を取り戻す見込みであったにもかかわらず、1392年、高麗の重臣であった李成桂が敵国である明と裏で手を結び、反乱軍となって高麗王を殺し政権を簒奪、再び敵国であった明に臣従し、その属国に成り下がり、以降518年間、国民は奴隷民族化され私有財産も没収された。李朝朝鮮とは、裏切りという汚い手を使ってできた王朝国家なのである。

そうして建国された李氏朝鮮は、スタートから血で血を洗う骨肉の争いと、つまらない権力維持のために百姓の殺生与奪をほしいままにし、明の腐敗した儒教・朱子学を国教とし、住民を四階級に区分した。既存の産業をつぶし、インフラ整備を完全に遮断させたまま、両班(やんばん)という貴族階級が百姓や良民から財産と生産物を奪い生屍(いきかばね:民草)として取り扱い、開化と近代化を志向した志士たちは容赦なく処断された。

このような環境の中で、階級制度は固定化し、創意工夫の精神は圧殺された。こうして李朝は、搾取と逆性の中にあり、国王は名ばかりで何ら政策も施さず、その政府には国家の予算すら存在しないという無軌道ぶりだった。いわば民衆は無政府状態に置かれていたのだった。

李氏朝鮮は、安定した社会をつくるために必要な継続性がなかった。政治とは党派を組んで、相手を蹴落とすことでしかなかった。そこでいつ、どのように力関係が変わって、どんな憂き目に遭うか分からなかったから、人々は自分だけが栄えればよいと思うようになった。このような環境のもとでは、公共精神の育ちようがなかった。
 法が軽んじられ、勝つことが正義となった。このような仕組みのなかで、勝った者が法などに顧慮せずに権力を振るったことから、人々が不正蓄財や、賄賂のやり取りに長けるようになった。李氏朝鮮は500年を通じて、腐敗社会の種を全国にわたって撒く一方、党派抗争の儀牲や、搾取と収奪の対象にしかされなかった民衆の血を肥しとして、歪みきった社会を作り上げたのだった。

日本の徳川時代265年と、何と大きく違っていたことだろうか。徳川の歴代将軍と幕閣は法を重んじて、よく遵守したから、このあいだ継続性が保たれた。このために、日本は徳川期を通じて、世界でも珍しい平和を享受した。特筆すべきは、八代将軍徳川吉宗による享保の改革が奏功し、以降、優秀な人材が次々と登用され、教育、算術、産業、工業、商業、薬学、医学が発展し、当時の世界において高い経済成長率を維持した。

世界で初めて、数学の世界で「微分」を編み出したのも、現代の先端取引手法である「先物取引」を始めたのも、暴れん坊将軍の治世下だったのである。
 李氏朝鮮と徳川の日本を較べると、文字どおり別世界であった。そのために一九世紀後半に両国が近代世界に参入することを強いられた時に、日本が物心ともに驚くべき強靭な力を備えていたのに対して、朝鮮半島はそのような活力をまったく持ちあわせていなかった。

悪辣極まりない李朝の統治下で500年を経過した朝鮮に隣接し、この生屍に等しい百姓を再生させたのが、日本であり、日韓併合であったことは歴史が証明している。 (一部筆者追記)

 

 

迎恩門

 

韓国39迎恩門

(朝鮮国王が、中国の皇帝の使者を迎えるために作った門)

 

朝鮮国王(李氏)は迎恩門まで出向き、三跪九叩頭の礼(ひれ伏して額を9回地面に打ち付けて行う礼)で支那(中国)皇帝の使者を迎えました。
ここから、『支那皇帝>支那使者>朝鮮王』の身分関係が分かります。
朝鮮の王様は「支那の皇帝の家来」よりも、身分が低かったのです。

使節が来ると、朝鮮国王は高官を引き連れて迎恩門まで歓迎に赴いて、地面にひれ伏して額を地面に九回打ちつけ使節に敬意を表し、宴会を催し、芸を披露して接待、たくさんの貢物を上納しなければなりませんでした。また、支那の使者を上から見ることは失礼であるとして、二階建ての家を作ることはできなかったのです。

 

属国当時の実態

国家主権が一切認められていなかった。

例えば、「朝鮮」という国号は李氏朝鮮初代の王となった李成桂が、明王朝にお伺いを立てて、決めてもらった。(ちなみに、朝鮮とは、朝(みつぎもの)鮮(すくなし)という意味) 

中国朝廷が朝鮮の王妃や王太子の廃立も決定できた。  

貨幣鋳造権は朝鮮には無かった。

朝鮮人に、主権はなかったのである。

支配者階級の両班が勉強したのは、中国史のみで、自国史は蔑まれていたのです。

 

 

大韓帝国、独立

韓国の国史では、5000年に渡り独立国であったと教わり、全韓国人が信じているのですが、実は清の属国でしかなかったのが、韓国の「真実の歴史」なのです。

『清の属国でしかなかった韓国』を独立させるために始めた日清戦争で日本が勝利し、日本は韓国の宗主国であった清に「韓国は独立国である」と認めさせました。

日本の清に対する宣戦布告にあたる『清国ニ対スル宣戦ノ詔勅』の内容は、朝鮮を独立国に列するため、属国扱いを続ける清と戦争を決意したといった内容になっています。

n

一部引用します。

「朝鮮ハ帝国カ其ノ始ニ啓誘シテ列国ノ伍伴ニ就カシメタル独立ノ一国タリ 而シテ清国ハ毎ニ自ラ朝鮮ヲ以テ属邦ト称シ陰ニ陽ニ其ノ内政ニ干渉シ其ノ内乱アルニ於テ口ヲ属邦ノ拯難ニ籍キ兵ヲ朝鮮ニ出シタリ」

(朝鮮は日本が誘って列国の地位に就いた独立国である。にも拘わらず清は朝鮮を属国として内政干渉し、内乱を鎮めるとの口実で朝鮮に出兵している)

対する清国の宣戦布告は、

「朝鮮ハ我大清ノ藩屏タルコト二百余年、歳ニ職貢ヲ修メルハ中外共ニ知ル所タリ近ク十数年、該国時ニ内乱多ク朝廷ハ小ヲ宇ムヲ懐ト為シ、畳次兵ヲ派シテ前往勘定セシメ竝ニ員ヲ派シテ該国都城ニ駐紮セシメテ時ニ随ツテ保護セリ」

(朝鮮は我々大清の属藩たること二百年あまり、年々朝貢をしていると内外に知れ渡って十数年。内乱が多いので、兵を派兵して平定し、また都城に駐屯させて保護している)

 

日清戦争に日本が勝利し、明治28年3月20日、下関で講和条約を結んだ。

この全11条からなる下関条約(日清講和条約)の第1条に、韓国の独立が謳われている。

第一条
「清国ハ朝鮮国ノ完全無欠ナル独立自主ノ国タルコトヲ確認ス。因テ右独立自主ヲ損害スヘキ朝鮮国ヨリ清国ニ対スル貢献典礼等ハ将来全ク之ヲ廃止スヘシ」

(清国は朝鮮が完全な独立自主の国であることを認めた。よって朝鮮の自主独立の妨げとなる朝鮮より清国に対する朝貢外交等は全て廃止とする)

 

こうして韓国は、

日本の尽力のおかげで、

やっとのこと独立国として成立することが出来たのです。

歴史を知らない、韓国人たち

日本が清に勝ち、朝鮮の独立を認めさせた時、まず朝鮮人たちが行なったことが迎恩門の破壊であった。そして、募金によって独立門が建てられたのだ。

ところが、韓国の若い世代はこのことを知らない。

「有史以来、朝鮮半島の国は独立国家であった」などというデタラメが学校で教えられているからだ。
 
独立門前で「この独立って、どこの国からの独立?」と質問すると、多くの若者はそんなことも知らないのかと憤慨しつつ「日本からに決まっているだろう」と答える。

しかし、そこで

「でも、説明板を見てごらん。この独立門が建てられたのは1897年だ。韓国併合は1910年だし、光復(独立)は1945年だろう。それ以前の話なんだよ」と言うと、彼等は絶句し思考停止してしまう。

m

韓国の歴史は 「ファンタジー」 と評されているゆえんである。

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

Comments are closed.