韓国併合の真実⑩

On 2013年7月23日

 

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日韓併合前、韓国の本当の姿④

 

戦前の日本人は、正確な事実を言知っていた

 

戦前の日本人は、韓国(朝鮮半島)がいかに立ち遅れていたか、日本がどれだけ苦労して韓国を当たり前の国に引き上げるために手を差し延べ続けたか、誰もが当たり前に真実を知っていた。

しかし、その事実は、昭和20年9月、GHQにより闇に葬られた。

その一例を紹介します。

 

宮本小一外務大丞の日記録

明治9年(1876)6月、日本政府により宮本小一外務大丞が朝鮮国京城(ソウル)へ派遣された際の日記録および、同行した陸軍士官の報告である「朝鮮紀行」より引用です。

 

井戸、泉水について

 浅間艦が仁川府所轄の済物浦で給水を求めたが、干天のため水が乏しかった。 こちらの水夫らが朝鮮人と共に井戸を掘ると、4尺(1.2メートル)あまりで清水が噴出した。

 人々は小井戸あるいは溜め水を用いるのみで、本年のように旱天の時にもなお手を拱いて、ただ渇水を憂えるだけで、自ら労力して水を得る方法をする者が無い。 かえって日本人によって良井戸を設けられるのは憫笑するところである。
 全体に井戸、泉水が乏しい。 井戸の深さも3、4尺に過ぎず、汚濁不潔を嫌わない風俗であるから、枯れなければそれでこと足れりとするようだ。
 水兵達は淡水を求めるのに大変な苦労をした。 山に入って鉱山を拓くかの如く各所で井戸を掘り泉水を求めていた。

糞と牛骨が散乱する王城市街

 京城は大河の上流にあり、王城城壁は山の中腹に渡っているが、その地は狭隘であり、人家が密集している。およそ3万戸以上はあろう。
 城郭には門が八ヶ所ある。構造が一番壮大なのは崇禮門である。 方位から言う場合は南大門と称する。
 門内に入れば西北に一大街路がある。 幅は20メートル余りである。
 市街は大抵瓦屋根の家である。 しかしその構造は甚だ雑であり、なおかつ路の両側に矮小の藁屋が列をなす。 ゆえに街路の幅を狭くし、またその不潔なこと名状し難い。 汚水が路の中央に溜まり、牛馬の糞がうずたかく積もり牛骨が散乱している。 しかし誰も掃除する者がない。 夏であるから一層臭気を覚える。
 その他の道は、4、5メートル余り。凸凹を修繕するということがない。 道路端の溝梁はない。 人家が道に出っ張っているのと、引っ込んでいるのとが並んでいて、頗る不整である。 王宮は壮大である。 しかし庭には青草が生い茂っている。 かつて掃除をしたことがないようだ。

 

風呂場と便所

 途中の各官庁には風呂というものが無かったが、ここ清水館では日本人のために風呂場が新たに作ってあった。 その広さ10坪ほど。湯を汲み入れて使うが、頗る爽快であった。

また、便所も数箇所仮設してあった。 これも日本人のために作ったと言う。 しかし粗末な藁葺きで不潔であった。
 途中の宿には敷地の一隅に便所が設けられていたが、頗る不潔で堪え難かった。 また、部屋に銅製の蓋付きの缶があり、通常はこれで用足しをするという。

 普通、朝鮮人民の家には便所がないとも言う。
 そのためか、いたる所で糞尿の臭気が甚だしく数万の蒼蝿が舞い、部屋にも満ちて煩わしく、耐えられない位である。 雨が降る日だけ臭気が治まった。
 ここでは蚊および蚤はまれであった。 しかし、浅間艦から士官3人が連絡のために仁川から来たときに民家に宿泊したが、夥しい蚊と蚤のために、ついに一睡も出来なかったと言う。

 日本人のためにこのように浴房を設け、数箇所の便所を作ってあるが、これは京城近傍では奇なる風景だと言う。

護衛朝鮮兵の様子

 清水館には、朝鮮兵が2、3百人ぐらいで護衛をしている。
 事務官と兵士の上官、下士官には休息所が設けられているが、他の兵卒は別に屯所もなく、館の内外のいたる所に筵を敷いて座ったり、あるいは樹木の下に居たりして、それで苦にしてる感じではない。 ほとんどまるで犬や羊の扱いである。 しかし雨の日は甚だ困難であろう。 また、糞尿をそこらあたりにするので、臭気不潔この上ない。 しばしば督促して掃除をさせた。

食事のことなど

 食事は1日2回で、たいてい10種類から17、8種に至る。 三尺四方ばかりの有脚盆にうずたかく盛り上げて、倒れ落ちるのを恐れるばかりである。
 牛豚鶏魚の肉、草餅、羮汁など、みな、器、皿に堆積する。 しかし臭味がひどく箸を下す者が少ない。
 ただ桃李、林檎、瓜などは臭味がないので食べられる。沙果・・・林檎に似て頗る大であるが美味ではない。 マクワウリ、葡萄、西瓜、梨の類が多い。
 水煮の卵、牛肉、豚肉、鶏肉、麺、カラスミ、乾し魚を削ったもの、或いは日本人のためにと焼き魚も出した。蜜を湯で溶いてミル(海草)と煮餅をあえたものなど。 それらが、1人に対して実に10人分程もある驚くべき量であった。

 炎熱の時節でもあり、その異様の臭いに堪えきれず、胃腸も慣れないこともあって食傷を恐れて箸を下す者が稀であった。
 なお、庶民のものは不潔で食べるべからずと言う。

膳台や食器など

 盆や膳類は漆が剥げ落ち垢がついてすべて不潔さを感じた。
 磁器皿の類は日本伊万里の下等品および呉洲のものが混じる。 朝鮮製のもあるが質が厚くて粗雑で石のように重い。 彩画はなくて青白色の上薬を用いるのみ。 しかしいずれも汚れたような不潔さを感じる。

牛豚鶏魚の肉も、調理をきちんとして器や皿を清潔にすれば、もとより食べられるものとなると思う。
 日本人がこの国に来れば、まず食べ物に注意しない時は、到底飢渇の患いを免れられないであろう。

 

米について

 米は日本のものと似るが、粘質に乏しく日本の下等品よりも劣る。

風景名物に乏しく見物を嫌う

 山々は、花崗岩質の土砂多く所々斑に青草が生えている。 また、老松が疎らに立っている。 禿山が多いからその風景の情が乏しいものに感じられる。

 三角山と称する剣鋩の如き山あり。 王城の鎮たり。 有名の山のようで朝鮮人の会話によく名が出てくる。
 村家や部落の地は樹木少なく、垣根なく、隠すものが無いので遥かに見渡すことが出来る。

「薬水」は、「ここから2キロばかりの所に樹木鬱蒼と繁り、渓流清冷にして最高の避暑地があるのでこの地に遊ばれたらよい」というので案内された。

市街を横切り「迎恩門」外の山麓にあった。しかし、背の低い松がまばらに生えた狭い谷があるばかりで、清水と言っても岩石の間から水が滴り出るぐらいの景況で、あたかも乞児の棲居する所の如し。
 皆、裏切られた気持ちで驚いたり悔やんだり憤慨したりして他の地に行こうとしたが、朝鮮の護送兵が頻りに遮り拒むので、ついに館に戻った。これでも、朝鮮人の話題にこの地のことがしばしば出るところからも、これをもって京城の風景名物に乏しいことを推察するべし。

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草木について

 各所に多く松を見る。 この国では松が多いと見えて松の実を食用によく用いる。 背が低くて横に曲がったものが多い。 直立して天を指して伸びたのは稀である。
 朝鮮の南部ではほとんど松は見ないが、釜山草梁公館には元禄時代の頃に松を植林したので鬱蒼と繁って風濤洋海を航するが如し。
 釜山、江華府、京城、それぞれの山が草木が繁るのに不適のようである。 禿山が多く、遠望すれば黄赤色が斑々としてその観は美ならず。
 家屋の建築には松材以外に無い。
 草木が少ないということは、それを愛玩して植える人もないということである。
 京城(ソウル)に花戸というものがない。 人が植えた花木というものが無い。

田園地帯

 土地は痩せていないようである。 丘陵は雑木ばかりであり、開墾をしたこともあるが村民が懶惰(なまけもの)だからついにそれも止めたと言う。

市場、産物

 大海から直接船が来ることは無いようである。 魚蝦は海から遠いので乏しいようだ。 もっとも、朝鮮人は、牛豚類を重用して鱗魚を賞しないようで、魚類は多く見ない。
 野菜などは、通常の種類がある。 しかし、浅間艦が1度に多量の数(船員約250人)を求めたが、すぐに得ることが出来なかった。 都外はもちろん都内でも魚市の貿易常に寂寞たるを知るべし。

 薪柴も乏しい。 家屋の床下に竈を設けてそれを燃やし、温暖にしてその上に座して冬の寒を防ぐので、そのために極めて多量の燃料を必要とし、山々はそれがために禿山となっている。 ゆえに薪柴は貴重品である。
 石炭は、修信使がかつて我が国の汽船に乗ったときに初めてそれを見たと言う。 後に帰国してから山中に石炭を見たという。 しかし掘る方法を知らないと言うので、後に(理事官-宮本小一が)石炭抗を掘る方法を書記して朝鮮国に送る事を約束した。

一般民家

 その家屋は石と泥をもって築立し、稲藁を葺いて屋根としている。 茅は焚き火の用に使うという。 窓が小さく、大人が家に入って立つことが出来ないようだ。 たいていの家に「床」というものが無く、土の上に藁むしろを敷いて座す。 その狭さ不潔さといい殆ど穴居の類である。
 そういう家が表裏の別なく密集し、路地には乱石が磊落して、ほとんど足をいれることが出来ない。 村の中央の家に行こうとするには、どの路地をどう曲がっていけばよいのか分からないぐらいである。
 寝起きするのも容易でないような家の中にはわずかに1、2の炊具を見る。

庶民の姿

 村民は、粗食に甘んじ寒寂に耐え、人間世界は斯くの如しと思うのみで、悠々として歳月を送る風がある。奔走して労働し寸陰を惜しんで急するという気性は無い。
 長煙管をもって煙を弄びながら余念無く日本人を見つめる姿は、山静かにして日長き殆ど太古の少年の如しである。

いいかげんなのは国風

 時間を守ることをしないのは朝鮮の国風である。 そのことを気にする者はいない。 公務などにおいても同様である。
 対談をしていても詐偽をもって答えたり、去ることを言わないまま帰ったりする。 甚だしいのになると、話の途中で立ってどこかに行ってそのまま戻って来ない。 皆これらは朝鮮の風習である。

気候と風土病

 一日の温度差が激しく、20度ぐらい差がある。
 (一行の京城滞在は、7月30日から8月26日まで)
 日本人に病人が多くなってきた。 これは気候が不順なことと食料の粗末なことに原因があると思う。

 帰国する頃には、京城に行った者は半数が病人である。 重症の下痢の者が多い。 中の一人(金子鉄蔵)が医官の治療の甲斐なく死亡した。

この病は一種の風土病でかつて台湾で流行したものと同じ種類であろう。 また朝鮮は悪性の熱病も多いという。
 浅間艦に居た者も下痢や脚気になった者が多い。
 今後、朝鮮国に人を派遣する場合は、予防法に注意すべきを要す。

 

 

最近朝鮮事情  荒川五郎 著  明治39年 清水書店より引用

日本の者が朝鮮に入り、朝鮮人家の間に雑居し、または朝鮮内地を旅行して朝鮮人の家に泊まると、一番に困るのは家の不潔であるのと、一種の臭気を吐き気を催すほどであるうえに、南京虫がやって来るので、実に快く眠ることができないからである。 また小便壷はたいてい室の中に置いてあって、大人でも小児でも、客の前であろうが、誰が居っても構わず、ジャ~と小便する、またその小便器を口の側に持って寄せて唾を吐き込む、彼らは久しい慣習で、別になんとも思わぬらしいが、日本人の目から見ればいかにも見苦しい、たまったものではない。 これが田舎になると一層ひどいのはいうまでもないが、しかし田舎のみではない、京城でも割合に不潔でないのは大路位のみで、少し折れて小路に入ると、その臭気は鼻をおおっていなくては通れない程で、塵や芥が道の上に散り乱れており、家々の便所から大小便は勝手に流れ出でつつある、そこらあたりを朝鮮の小児らは平気でガヤガヤと戯れ遊んでいる。

 

 

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

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