原爆が残した爪痕

On 2013年6月10日

 

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「もし原爆投下の事前相談があったら、

 その必要なしと答申していたであろう」

 マッカーサー元帥

 

 

「原爆投下は必要なかった」

「原爆投下はアメリカ史上並ぶことのない残虐行為である。 それは永遠にアメリカ人の良心に重くのしかかることになるだろう」

フーバー 元アメリカ大統領 (『フーバー回顧録』より )

 

 

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原爆11

『焼き場に立つ少年』 1945年8月 長崎

撮影:ジョー・オダネル(Joe O’Donnell)

 

 

昭和20年年8月6日、広島にウラン型原子爆弾が投下された。

8月9日、長崎にプルトニウム型原子爆弾が投下された。

8月15日、日本は敗戦し、米軍が占領軍として日本に進駐した。

 

米軍の従軍カメラマン、ジョー・オダネルが一枚の写真を撮った。

「佐世保から長崎に入った私は、小高い丘の上から下を眺めていました。 すると白いマスクをかけた男達が目に入りました。 男達は60センチ程の深さにえぐった穴のそばで作業をしていました。 荷車に山積みにした死体を石灰の燃える穴の中に次々と入れていたのです。

10才ぐらいの少年が歩いてくるのが目に留まりました。 おんぶひもをたすきにかけて、幼子を背中に背負っています。
弟や妹をおんぶしたまま、広っぱで遊んでいる子供の姿は当時の日本でよく目にする光景でした。

しかし、この少年の様子ははっきりと違っています。 重大な目的を持ってこの焼き場にやってきたという強い意志が感じられました。 しかも裸足です。

少年は焼き場のふちまで来ると、硬い表情で目を凝らして立ち尽くしています。 背中の赤ん坊はぐっすり眠っているのか、首を後ろにのけぞらせたままです。 少年は焼き場のふちに、5分か10分も立っていたでしょうか。

白いマスクの男達がおもむろに近づき、ゆっくりとおんぶひもを解き始めました。 この時私は、背中の幼子が既に死んでいる事に初めて気付いたのです。

男達は幼子の手と足を持つとゆっくりと葬るように、焼き場の熱い灰の上に横たえました。 まず幼い肉体が火に溶けるジューという音がしました。 それからまばゆい程の炎がさっと舞い立ちました。 真っ赤な夕日のような炎は、直立不動の少年のまだあどけない頬を赤く照らしました。

その時です、炎を食い入るように見つめる少年の唇に、血がにじんでいるのに気が付いたのは。

少年があまりきつく噛み締めている為、唇の血は流れる事もなく、ただ少年の下唇に赤くにじんでいました。

夕日のような炎が静まると、少年はくるりときびすを返し、沈黙のまま焼き場を去っていきました。 背筋が凍るような光景でした」

(朝日新聞創刊120周年記念写真展より) 

 

ジョー・オダネル

占領軍の記録カメラマンとして原爆投下後の長崎に入り、その破壊力を記録するため写真を撮影する一方で、軍に隠れ内密に自分のカメラでおよそ30枚の写真を撮影した。 帰国後、被爆者の記憶に悩まされ、悲劇を忘れ去ろうと全てのネガを自宅屋根裏部屋のトランクの中に閉じこめ、43年間封印してしまう。 しかし晩年になって原爆の悲劇を訴え母国アメリカの告発に踏み切っていく。

彼は、原爆投下の正当性を信じる多くのアメリカ国民、そして周囲からの非難の声を浴び、妻にも理解されず離婚され、孤立無援となった。 追い打ちをかけるように、爆心地に行ったこともあって、体中にガンができてしまいます。 それでも、めげずに活動を続けた。

そんな中、ジョー・オダネルの娘が、一通だけ味方してくれている投書があることを伝えます。

「原爆が正しいと言っている人々は、図書館で世界の歴史をもっと勉強してから、意見を述べるべきだ」 

と、書かれていました。 それはなんと、当時23歳だった、ジョー・オダネルの息子タイグさんが書いたものだったのです。
ジョー・オダネルは、平成19年、85歳の生涯を閉じた。
今、意志を引き継いで行動しているのは、息子のタイグさんです。

 

 原爆12ジョー・オダネル

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

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