サイパン玉砕の真実

On 2013年5月29日

 

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サイパン前線にいる恋人の中尉から送られてきた「日本兵のドクロ」を前に、お礼のラブレターを書くナタリー  

ライフ誌(昭和19年5月22日号)

 

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「普通の日本人は知性が低く、無知である。たぶん人間なのだろうが、 人間であることを示すような点はどこにもない」 アメリカ・タイムズ紙 (大東亜戦争当時)

 

サイパン島バンザイ・クリフの悲劇は米軍の強姦と拷問と強奪と虐殺が、誘発した

昭和19年7月、「捕虜になるべからず」という軍命令により、サイパン島陥落時に邦人男女が「万歳」を叫んで次々に断崖から海に身を投げて自殺した、と私たちが信じてきた、いわゆる“バンザイ・クリフ事件”。

実は米軍による婦女暴行や虐殺により誘発された事件であったことが、生々しい証言として『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』(田中徳祐 著)に綴られています。彼は敗戦後もゲリラ活動で戦い通した元陸軍大尉で、日本復員後、詳細につけていた記録をまとめた本を出版しようとするも、日本を占領中のGHQの検閲により出版禁止となってしまいました

その手記の一部である「バンザイ・クリフ事件」の項を紹介します。

 

 サイパン1クリックすると綺麗に見れます

 

 「いまだにジャングル内に残っている日本の兵隊さん、住民に告ぐ。いまかけた歌は、なんと懐かしい歌ではありませんか。みなさんの幼い頃を思い返してください。一日も早く、平和な日が訪れるのを、故郷の父母が待っていることを忘れないでください」

そしてさらに、「米軍は虐待しません。命が大切です。早く出てきてください」 投降を勧める放送は再三くり返された。

我々はその放送を頭っから否定した。「そんな甘い手に我々がのると思うか!」放送を耳にすればするほど、強い敵気心が湧いてきた。

投降呼びかけの放送とはうらはらに、米軍は人道上許しがたい残虐な行為を次々と展開しだした。

我々は、バナデルの飛行場を見おろせる洞窟に潜んでいた。距離にして1,000mくらい先に、上陸してすぐの3月20日から作業をはじめ完成させた滑走路が横たわっていた。しかしいまは米軍の砲爆撃で無惨な姿をさらけだしている。

そこへ、三方から追いまくられた数百の住民が逃げ込み、捕われの身となった。 幼い子供と老人が一組にされ、滑走路の奥へ追いやられた。婦女子が全員、素っ裸にされた。そして、無理やりトラックに積み込まれた。積み終ったトラックから走り出した。

婦女子全員が、トラックの上から「殺して!」「殺して!」と絶叫している。

その声がマッピ山にこだましてはねかえってくる。

やがて、次のトラックも、次のトラックも走り出した。 絶叫する彼女たちの声はやがて遠ざかっていった。 ……なんたることをするのだ! 小銃だけではどうすることもできない。もし、一発でも発砲すれば敵に洞窟の場所を知らせることになる。この悲劇をただ見守るより仕方ない。(この婦女子はその後、1人として生還しなかった)

婦女子が連れ去られたあと、こんどは滑走路の方から、子供や老人の悲鳴かあがった。

ガソリンがまかれ、火がつけられた。飛び出してくる老人子供たち。その悲鳴・・・。

米軍は虐待しません、命が大切です。早く出てきなさい……。

あの投降勧告はー体なんだったのか。常夏の大空をこがさんばかりに燃え上がる焔と黒煙。幼い子供が泣き叫び、絶叫する。断末魔があがる。そのすさまじいばかりの叫びが、中天高くあがり太平洋の波をゆさぶらんばかりである。

「おい、もうがまんならん。撃て」この状況をみていた私は叫んだ。同時に吉田軍曹が一発撃った。しかし、なんの効果もない。敵は、もはや我々に無頓着である。

残虐な行為は凄絶をきわめた。火から逃れようとする子供や老人を、周囲にいる敵兵は、ゲラゲラ笑いながら、また火の中へ突き返す。かと思えば、死に物狂いで飛び出してくる子供を、再び足で蹴りとばしたり、銃で突き飛ばしては火の海へ投げこんでいる。

2人の兵隊が滑走路のすぐ横の草むらに置き去られて泣いている赤ん坊をみつけだし、両足を持って、真二つに引き裂いて火の中へ投げこんだ。「ギヤッー!」という悲鳴。人間がまるで蛙のようにまた裂きにされ殺されていく……。

彼らは、それをやっては大声で笑った。

無気味に笑う彼らの得意げな顔が、鬼人の形相に見えた。

射撃をやめ、この非道な行為を脳裏に焼きつけた。

いまは眼からは一滴の涙も出ず、この恨みを、どこまでも生き抜いていつかきっと返さねばならぬと、全身に激しい怒りがみなぎった。

恨みに狂う我々は、しかし手のほどこしようもない。焼き殺されていく無惨な運命にただ合掌し、霊を弔うだけが精一杯だった。

我々の発砲にとうとう敵の反撃が始まった。看護婦たちが自決した右上の丘陵伝いに、攻撃してきた。我々は洞窟に潜み、抗戦をつづけた。そして夕暮れまでなんとか持ちこたえた。だが、この戦闘でも半数は死傷者となり、明日への戦闘能力を失った。

『我ら降伏せず サイパン玉砕の狂気と真実』田中徳祐著からの抜粋

※この著書はもはや絶版となっており、大きな図書館にかろうじてあるくらいですが、「復刊ドットコム」というサイトで購入できるかもしれません。

 

「マッピ岬にたどり着いた田中大尉は、岩の間に一本の青竹を渡し、それに串刺しにされた婦人を見た。さらに自分と同じ洞窟に居た兵士や住民が五体をバラバラに切り刻まれて倒れているのを眼前に見た」

 サイパン戦で生き残った田中徳祐・元陸軍大尉(独立混成第47旅団)の証言 『正論』平成17年9月号「NHKウォッチング」  中村粲・元獨協大学教授、昭和史研究所代表

 

アメリカ軍は、捕虜を取らなかった

ニューギニア戦線でのオーストラリア軍やマッカサー指揮下の第41師団は、「 捕虜を取らない 」つまり武器を捨て両手を上に挙げて降伏しようとする日本兵や、既に降伏した日本兵を殺すことで有名だった 。 

日本軍も負傷兵や捕虜に対する連合国側の殺害に関する情報をつかんでいて、戦時中の日本からの対米宣伝放送 ( 東京ローズ )では、第41師団のことを 「 屠殺者、Slaughterer 」と呼んでいた。 

終戦直後、ある米陸軍大尉が公表した記事には、「 第41師団、捕虜を取らず」 という堂々たる見出しが付けられていた。この師団が例外的に日本兵を捕虜にしたのは、軍事情報の収集のために捕虜が必要な場合だけであった。 

『容赦なき戦争』(副題)太平洋戦争における人種差別、カリフォルニア大学教授ジョン・ダワー著 )

軍事歴史家 デニス・ウォーナーは 1982 年に出版した日本の特攻隊に関する本の中で、ブーゲンビル島での自らの体験を紹介している。

そこで彼は、投降しようとした日本の負傷兵を、オーストラリア軍の司令官が射殺するように命じるのを目撃する「 しかし彼等は傷つき、おまけに降伏を望んでいます」と、日本軍の大規模攻撃が失敗に終わったあとの戦場で、部下の大佐が司令官に反論した。

「私の言うことが聞こえただろう」と、両手を挙げた日本兵からわすか数ヤード離れただけの少将(司令官)は答えた。

「 捕虜はいらない。全員射殺してしまえ 」 そして彼等は撃たれた。

昭和20年4月7日、沖縄への海上特攻に赴いた戦艦大和をはじめ巡洋艦矢矧(やはぎ)など2隻、駆逐艦3隻が敵の空襲を受けて沈没した。

「現場の海面で浮遊物につかまり漂流中の無抵抗な乗組員に対して、空母を飛び立った米軍戦闘機の群が執拗に来襲しては情け容赦もなく機関銃を撃ちまくり殺戮(さつりく)した」 (矢矧の原艦長の証言)

「この悲惨な状況をあざ笑うかのように、 米軍機は何時間にもわたって、無抵抗の漂流者に執拗な機銃掃射を加え続けた」 (『大和と運命を共にした第2艦隊司令長官』伊藤整一著)

同様な残虐行為は ニューギニア近海でもおこなわれた。

昭和18年3月3日に起きたビスマルク海戦の結果、陸軍の兵士を乗せた輸送船8隻と駆逐艦4隻が敵機の攻撃により沈められましたが、沈没した日本の艦船からボートや筏(いかだ)で逃れ、浮遊物につかまり漂流中の1,000名の兵士達に対して、アメリカとオーストラリア軍の飛行機が低空から機銃掃射をおこない、機関銃の弾を撃ち尽くすと基地に戻り弾を補給し、映画撮影の カメラマンまで乗せて何度も弾の補給に往復しては攻撃を続けたのです。

「決して男らしいやり方ではなかった」と第5爆撃隊のある少佐は戦闘記録の中で報告していました。「隊員の中には気分が悪くなる者もいた」と証言しています。

救命ボートやその周辺を文字どおり「血の海に変えた」その殺戮の様子を、機上から撮影した実写フィルムが10年ほど前に オーストラリアのテレビ局が放映し、国民に大きなショックを与えました。「我々は フェアーな戦をしたと思っていたのに・・・」と。 

(『容赦なき戦い』ジョン ・ダワー著 )

硫黄島の洞窟内から戦後米兵により持ち去られた日本兵の頭蓋骨は 1,000個にもなる。彼等はそれでロウソク立て、灰皿やペン皿を作ったといわれ、また硫黄島で戦死した日本兵の頭蓋骨と称するものが、ロサンゼルスの骨董店で1個25ドルで売られていた。

『硫黄島いまだ玉砕せず』上坂冬子著 )

サイパン2 米兵が日本兵の頭部を煮ている写真(昭和19年)

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沖縄戦の悲劇

72321_599024486837012_1302139081_n沖縄県民の集団自決が 「軍による命令でなかった」 ことが裁判でも立証された

大手新聞社はこの事実を 『秘密』 にして隠した!

特定秘密法案をあれだけ『恐ろしい法律』とけしかけておきながら、である

沖縄本島には1,200隻の艦船に分乗する17万人のアメリカ軍が来攻し、わが軍と凄惨な血戦が繰りひろげられた。

以下、マックス・ヘイスティングス著(イギリスの歴史作家)「ネメシス 日本との戦い 1944-45年」 ハーパースプレス社、(英・ロンドン)からの引用です。

一般住民がさまよう戦場では、身の毛がよだつようなことが起こった。
とくに沖縄戦がそうだった。
クリス・ドナー(アメリカ軍兵士)は、こう記録している。

地面に15歳か、16歳と思われる、少女の美しい死体が横たわっていた。
全裸でうつ伏せになって、両腕を大きく拡げていたが、やはり両脚を開いて、膝から曲げてあがっていた。
仰向けると、少女の左乳房に銃弾が貫いていたが、何回にもわたって強姦されていた。

日本兵の仕業であるはずがなかった。

しばらく後に、ドナーの分隊の何人かが、丘の上から敵によって狙撃されて、倒れた。
その直後だった。赤児を抱きしめている日本女性に、遭遇した。
兵たちが口々に、「あのビッチ(女)を撃て! ジャップ・ウーマン(女)を殺せ!」と、叫んだ。
兵がいっせいに射撃した。
女は倒れたが、渾身の力を振りしぼって立ち上がると、手離した赤児のほうへ、よろめきながら進んだ。
兵たちは、さらに銃弾を浴びせた。

女が動かなくなった。 

 

サイパンの悲劇を沖縄県民は知っていた

アメリカ軍は、アメリカ大陸を侵略する際に勇猛果敢なインディアンをせん滅させた狡猾な成功体験を太平洋戦争でも使った。

正面切って戦うのではなく、後方の民間人を襲うのである。

インディアンとの戦いでは、勇敢な戦士と正面切って戦わず、迂回して部落に残った女子供を犯して殺した。

サイパンでもいかんなく発揮され、民間人は、男はその場で殺され女は凌辱されたのち殺されたのである。

※ 太平洋上の戦場で戦うだけでなく、B29による本土爆撃や原子爆弾による民間人の大虐殺も、それに該当する。

サイパンには沖縄からの移民が多かった。

サイパンでは、民間人の男は見つけ次第射殺され、女は生け捕りにされ老婆以外は米兵の慰み者となり凌辱を受け「死ぬ以上の苦しみ」を味わったのち生きたまま焼き殺されたり殴り殺された。

その情報は沖縄にも伝えられており、沖縄県民は生きて死以上の苦しみ・辱めを受けるのではなく、自決の道を選んだ。

サイパンや沖縄県民の飛び降りる映像が良く使われているが、それを撮ったのは米軍である。

崖っぷちにまで追い込まれた女性が最後に後ろを振り返る。

そこには、追い込んできた米兵がいた。

彼らはニヤニヤ笑っていた。

生きて捕まったら、どうなるかは当時の日本人は(実体験で)みな知っていた。

意を決して崖から飛び降りた。

その姿が痛々しい・・・

日本では反戦の映像として使われてきたが、真実は、アメリカ兵の獰猛さを愉快に記録したにすぎないのだ。

沖縄県民の証言

02沖縄に上陸する米軍部隊

大東亜戦争・沖縄戦では住民が戦火に晒され、集団自決するなどの惨事がおきました。

軍に投降すれば助かった」「鬼畜米英などのスローガンはウソだった」などという声を聞いたことがありますし、戦闘終了後に米軍と沖縄の子供が映った写真などを見たことがあります。

 

米軍は、本当に紳士で親切だったのでしょうか?

 

投降した人は戦闘員と非戦闘員に分けられ、それぞれの捕虜収容所に送られました。収容所は一定地域に有刺鉄線を張っただけで、テントやバラックを建て、砂の地面に寝る生活でした。

そこでは伝染病が蔓延し、昭和21年にはマラリア患者が17万人にものぼり、死者は毎年1,000人を超え、本島北部の住民は戦死者よりもマラリアによる死者のほうが多いくらいでした。

食事も軍用携帯食糧で、収容所によっては食糧飢饉になって草の根やネズミまで食べつくし、栄養失調で次々死んでいった収容所もあります。

収容所間の通行は制限され、夜間は外出禁止。外に出て射殺されたり、女性が強姦される事件が頻発しました。

収容所では、夜になると米兵が集団でやって来て、収容されている婦女子をあたりかまわず強姦したのです。助けようにも、銃を持っており、逆らえば殺されます。日本人にできることは、米兵が来たら合図を送り、若い女性を隠すことぐらいでした。

収容所から開放され、自宅に復帰すると、米兵は女狩りを始めます。本島中部の農道を若い娘2人を伴った母子が歩行中、米軍車両が近づき、黒人兵3名が車から降りて娘2人を拉致しようとし、母親が必死に抵抗するも歯が立たず、騒ぎを聞きつけた村の男性数人がこん棒を持って阻止しようとしたところ、もう1人の黒人兵が拳銃を地元男性に照準して威嚇し、娘を連れ去ってしまいました。

妻に暴行しようとした米兵に立ち向かった50代の男性が射殺されたり、17,18歳の女性3人が拉致され、山の中に連れて行かれ、後に泣きながら帰ってきたり、野戦病院に入院していた少女を父親の目の前で強姦されたり、こういう話は山ほどあります。

強姦された後、生きて帰れればまだいいほうで、死体となって発見された例も少なくありません。

沖縄戦の体験証言集を読むと、これよりももっとむごたらしい「米軍の鬼畜のごとき蛮行」が、いくつも出てきます。

沖縄に上陸した米軍だけが、鬼畜のごとき虐殺・強姦行為を楽しんだのではなく、すべての地域で、米軍による悲劇が繰り返されていたことを、私たちは知るべきです。

大事なことは、戦後、アメリカ軍が行った鬼畜のごとき残虐行為を「日本軍が行った残虐行為」にすり替えられ、歴史の授業で学ばされ、マスコミが今でも報道し続けている事実を、私たちはしっかりと認識しなくてはいけません。

お奨めのインターネット情報

かつて日本は美しかった

http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110616/1308234135

仲地文子さんの証言

羽地でも、真喜屋あたりへ食糧を探しに行く途中で、米兵に襲われた女性が何人かいた。
だから、米兵の目をごまかすために、女たちはわざと顔に鍋墨を塗り、薄汚いなりをして歩いたものだった。
また、深夜に突然米兵が現れると、空き缶やバケツなどをガンガン叩いて追っ払ったものである。

末吉カメさんの証言

普通の米兵はとくに悪いことをするようでもなかったので、私達は安心していた。
ところがそのなかに、住民から鬼のように怖がられている者がひとりいた。
やせっぽちのシビリアンと呼ばれていたが、彼はいつも銃を持ち歩き、男という男はかたっぱしから捕まえて引っ張っていったし、若い女性には乱暴(強姦)をはたらくなど、非道のかぎりをつくしていた。
事実彼によって何人かの男たちが殺されてしまった。
そいつが村に入って来るのを見て、すばやく若い女性を逃がしたために、原っぱに連れ出され、正座を命じられて射殺された男もいた。
米軍は寛容で親切だったなんてことは、まったく無かったのです。
自決せず投降して助かった人が幸せだったとはいえないでしょう。
こうした米軍の蛮行を見て戦時中「米軍は女性を陵辱し、男性は戦車でひき殺される」というフレーズが思い出す人もおり、自決した友人達を羨(うらや)んだといいます。

■オークラ出版「拉致と侵略の真実」『沖縄の受難史』恵隆之助
■小学館「沖縄論」小林よしのり(著)
■沖縄戦関係資料閲覧室 証言集

 

リンドバーグが見たもの

昭和2年、チャールズ・リンドバーグは、ニューヨークからパリへ、史上初の大西洋横断、単独無着陸飛行に成功したが、この偉業は後に 「 翼よあれが、パリの灯(ひ)だ」の題名で映画化された。彼は昭和19年、ニューギニアの米軍基地で陸軍将校として4ヶ月過ごしたが、その体験を日記に記して後に『第2次大戦日記上巻、下巻』として出版した。

それによると彼は戦場で見たものにショックをうけた。それは兵士が嬉々として敵を殺したからではなく、米兵が日本兵に対して抱く露骨な人種蔑視の念と、それに基づく残虐行為を目のあたりにしての苦悩であった。

たとえ敵味方に別れて戦い軍服に違いがあるとしても、敵の人間としての勇気は勇気として、兵士の使命は使命として認めなければならないにもかかわらず、太平洋地域の連合軍の中には、そうした感情のカケラもないことを発見した。

そこでは士官も兵士も日本人に対する人種差別、蔑視から自分達と同じ人間とは考えず、人間以下の単なる動物としか見ていなかった。 

ニューギニア戦線において捕虜となった日本兵の数がなぜ少なかったのか、その理由は以下を読めば納得できる。

Yellow Monkey ( 黄色い猿 )

昭和19年6月21日の日記、日本人捕虜にタバコをやり、気がゆるんだところを後ろから押さえ、のどを「真 一文字にかき切った 」というのを、日本兵捕虜殺害の一例として教えてくれたある将軍との会話を要約している。残虐行為に対するリンドバーグの異議は、嘲笑とあわれみをもって軽くあしらわれた。

6月26日の日記、日本兵捕虜の虐殺、および被弾した飛行機から脱出しパラシュート降下中の日本航空兵の射殺について述べている。降伏し捕らえられた2千数百人という日本兵捕虜のうち、捕虜収容施設に引き渡されたのは僅か100人か200人に過ぎなかった。残りの者たちは殺害されたが、事故に遭ったと報告された。

「仲間が降伏したにもかかわらず機関銃で撃たれたという話が日本兵に広がれば、投降しようという者などまずいなくなるだろうと、リンドバーグは聞かされた。つまり黄色い猿に過ぎない捕虜を取り扱う、余分な手間や面倒がはぶけるという理由からであった 。

7月13日の日記、われわれの兵士たちは、日本人捕虜や降伏しようとする兵士を射殺することをなんとも思わない。彼等はジャップに対して動物以下の関心しか示さない。こうした行為が大目にみられているのだ。

と記されていた。

8月30日、リンドバーグは、中部太平洋ギルバート諸島にあるタラワ環礁を訪ねた。そこでは日米の激戦が行われ米軍も甚大な死傷者が出たのだが、日記には、捕虜になった数少ない日本兵を一列に並べ、尋問に英語で答えられる者だけを残し、あとは全て殺させた海軍士官のことが出てくる。

ある仲間のパイロットから直接聞いた話によれば、後ろ手に縛られた日本人捕虜達を輸送機に乗せて収容施設のある地域に輸送する際に、彼等を飛行中に突き落とす行為がおこなわれた。そして報告書には捕虜全員が自分から飛び降りたと記録された。

 ( 『第2次大戦日記』 チャールズ・リンドバーグより引用)

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病院に対する爆撃

昭和19年5月24日、ブーゲンビル島ラバウル基地にあった第8海軍病院が、米軍機による攻撃を受けて、患者、看護婦、医師ら1,400名が死傷した

病院の屋根には国際法の定めに従い、上空からよく見えるように赤十字の標識 を大きく塗装していたにもかかわらず、それを無視して病院の建物に対して爆撃や銃撃を加えるという、「戦時国際法」違反の、非人道的攻撃をおこなった。

それ以後日本軍は、病院施設に対する国際法違反の攻撃を防ぐために、地下壕や洞窟内部に病院を設営することにしたのである。

フィリピンのラグナラ州カランバには日本兵を収容するルソン第1捕虜収容所があった。ここはフィヒリピンにおける最大規模の収容所である。

米軍の発表によれば収容された捕虜のうち、戦争が既に終了した昭和20年末までに、栄養失調で死亡した日本兵捕虜は12,000人にものぼった。

もし日本側の捕虜収容所がこのような米兵の大量死を起こしていたら、原因や経過はどうであれ、B ・C 級戦犯裁判に掛けられて多数の責任者、兵隊が絞首刑になったことは間違いない。しかしここの米軍責任者は誰も罪を問われる事はなかった。

悪どいことにアメリカは、この「国際法」に違反した捕虜虐待行為を覆い隠すため、そして日本を支配したマッカーサー元帥はフィリピンで敵前逃亡した自分の恥を覆い隠すため、「バターン、死の行進」を創作し、フィリピンの軍事裁判で無実の日本人将校を何人も銃殺刑にした。

結果、私たち日本人は「日本軍だけが悪である」と学校で教わり続け、マスコミが大々的に喧伝(けんでん)し続け、今でも信じ続けさせられている。

私たちは全く知りませんでしたが、実は、沖縄戦のさなか、サイパンと同じ悲劇(強姦・輪姦・強奪・拷問・虐殺)が米兵により多数もたらされていたのです。

米兵は、日本兵捕虜への拷問、殺害は当然の行為として行っていただけでなく、投降し白旗を掲げた日本兵たちへの機銃掃射や収容所への移送中の殺害(※「腹切り」と報告)、戦利品として遺体の一部(金歯や頭蓋骨、骨を加工)や、お金になりそうな万年筆や腕時計などをあさり、彼女や家族へのお土産にするという、私たち日本人では考えもつかない猟奇的な浅ましい行為を平然と行っていたのです。

保護し収容した婦女子に対してまで、収容された人たちがいる目の前で強姦をくり返し欲望の限りを尽くすことすらしていました。

「手を切り取って戦果の トロフィーとする、金歯をあさる、死体の空いた口を目がけて小便をする、恐れおののく 沖縄の老女を撃ち殺し、「みじめな生活から、解放してやっただけだ」と気にも留めない海兵隊員の様子を目撃した」

( E・スレッジ 生物学者 昭和56年に出版の回想録より引用 )

 

アメリカ人(白人種)にとって、有色人種である日本人は、サルや豚であり、人間ではなかったのです 。

 

日本兵は、「戦陣訓」があったから捕虜にならず死を選んだと言われてきましたが、果たしてそれだけであったのか大いに疑問です。

投降後、多くの日本兵は殺害されました。

拷問を受けた兵も多数存在します。捕虜にならず死を選んだ日本兵、そしてサイパンや沖縄県民をはじめとする島嶼の民間人の中には、この鬼畜のごとき米軍の残虐行為を見て聞いて知っていたからこそ、死を選んだ方もいらっしゃったのではないでしょうか。

戦後、アメリカ軍(GHQ)による徹底した検閲により、米軍が戦争中行ってきた女性への強姦を含む残虐な行為を、発表したり批判することは一切許されず、GHQによって創作された日本軍の残虐行為だけが新聞・雑誌・ラジオで毎日のように流布され続けたのです。

この7年半にもわたる米軍の統治下における徹底した言論統制により、日本の歴史は完全に書き換えられ、戦時中、日本人が「死を選んだ本当の理由」を確かめる術は永遠に消えてしまいました。

 

イギリス軍の残虐行為

「英軍はひどいことをします。私たちは、イワラジ河のずっと河下の方に一時いました。その中州に戦犯部隊とかいう鉄道隊の人が、百何十人か入っていました。泰麺(たいめん)国境でイギリス人捕虜を虐待して多数を殺したという疑いです。その人たちが本当にやったのかどうか知りません。イギリス人はあの人たちは裁判を待っているのだと言っていました。

狂暴で逃走や反乱の危険があるというので、そういうところへ収容したのだそうです。でもその必要はありませんでした。

私たちは食糧が少なく飢えに苦しみました。ああ、あなたたちもそうでしたか。あの人たちも苦しみました。あそこは毛ガニがたくさんいます。うまい奴です。それをとって食べたのです。

あなたもあのカニがアミーバ赤痢の巣だということを知っていますね。

あの中州は潮がさしてくると全部水に没し、一尺ぐらいの深さになります。みんな背嚢を頭にのせて潮がひくまで何時間もしゃがんでいるのです。

そんなところですから、もちろん薪の材料はありません。

みんな生のままたべました。

英軍はカニには病原菌がいるから生食いしてはいけないという命令を出していました。兵隊たちも食べては危険なことは知っていたでしょう。

でも食べないではいられなかったのです。

そしてみんな赤痢にやられ、血便を出し血へどを吐いて死にました。水を呑みに行って力つき、水の中へうつぶして死ぬ。あの例の死に方です。

看視のイギリス兵はみんなが死に絶えるまで、岸から双眼鏡で毎日観測していました。

全部死んだのを見とどけて、「日本兵は衛生観念不足で、自制心も乏しく、英軍のたび重なる警告にもかかわらず、生ガニを補食し、疫病にかかって全滅した。まことに遺憾である」と上司に報告したそうです。何もかも英軍の計算どおりにいったというわけですね」

とにかく英軍は、なぐったり蹴ったりはあまりしないし、殺すにも滅多切りというような、いわゆる「残虐行為」はほとんどしなかったようだ。しかし、それではヒューマニズムと合理主義に貫かれた態度で私たちに臨んだであろうか。そうではない。そうではないどころか、小児病的な復讐欲でなされた行為さえ私たちに加えられた。

しかし、そういう行為でも、つねに表面ははなはだ合理的であり、非難に対してはうまく言い抜けできるようになっていた。しかも、英軍はあくまで冷静で、「逆上」することなく冷酷に落ち着き払ってそれをおこなったのである。

ある見方からすれば、かれらは、たしかに残虐ではない。しかし視点を変えれば、これこそ、人間が人間に対してなしうるもっとも残虐な行為ではなかろうか」

『アーロン収容所』中公文庫 会田雄次より引用)

 

降伏日本軍人

 英軍は国際法が定める捕虜の待遇を与えないために「降伏日本軍人」という新たな身分をあみ出した。その日本軍人に対して、粗末な給養で、危険な、あるいは不潔な労働を強いたのである。この問題については『軍事史学』(第35巻第2号)に掲載された喜多義人論文に詳しい。

 それによると、10万6,000名もの将兵が昭和21年7月以降も「作業隊」として東南アジアに残され、昭和23年1月の送還完了までに9,000人近い死者がでたという。

 日本軍将兵が課せられた作業は、「弾薬の海中投棄、採石、樹木の伐採、下水掃除、糞尿処理、炭塵の立ち込める船倉内での石炭積載作業、100キロ入り米袋の運搬」などで、明らかにハーグ陸戦法規と1929年の捕虜条約が禁じた、過度で、不健康、危険な労働であった。まさに、緒戦で日本軍に敗れた怨念を晴らすため、後々問題とならぬよう直接の暴力は振るわないが、残虐極まりない復讐手法であった。

「英軍についていえば、1944年6月22日、インド・アッサム州のミッションで、100人以上の日本軍傷病兵が、英軍兵に焼き殺された」 (『世界戦争犯罪事典』文芸春秋より引用)

「アッサムの英軍根拠地インパールの攻略を目指した牟田口中将の第15軍は、コヒマを占領したものの、英軍の猛反撃を受け後退を開始した。ミッションを防衛していた歩兵第60連隊も移動を始めたが、逃げ遅れて担架に乗せられたまま路上に放置された夜戦病院の重傷患者150名は、英軍グルカ兵の手でガソリンをかけられ焼き殺されたのである」 (『日本の反論』(米田健三著 並木書房)より引用)

 

お勧めのインターネット情報

 アメリカ軍やオーストラリア軍の蛮行

http://seitousikan.blog130.fc2.com/blog-entry-162.html

 

米軍は親切だったのか ~沖縄戦~

http://d.hatena.ne.jp/jjtaro_maru/20110616/1308234135

 

激動の昭和初期を過ごした小学生のころ

http://homepage3.nifty.com/yoshihito/genbaku-1a.htm

 

リンドバーグ衝撃証言

http://blog.livedoor.jp/wildhorse38/archives/25468782.html

米軍兵による日本軍戦死者の遺体の切断 (ウィキペディア)

http://ja.wikipedia.org/wiki/%E7%B1%B3%E8%BB%8D%E5%85%B5%E3%81%AB%E3%82%88%E3%82%8B%E6%97%A5%E6%9C%AC%E8%BB%8D%E6%88%A6%E6%AD%BB%E8%80%85%E3%81%AE%E9%81%BA%E4%BD%93%E3%81%AE%E5%88%87%E6%96%AD

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

 

 

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