特攻 長編読み切り版

On 2013年5月12日

特攻21

 

 

私たちは、かわいそうな人でも何でもありません。

今の時代から見れば、そう考えるのかも知れませんが、

当時は国の為に命をささげることに大いなる価値があった。

やはり物事を正しく見るには、

当時の状況を前提に考えないと当事者の気持ちまで理解するのは難しい。

その時代の雰囲気、戦況、そういうものの中にあって初めて生まれる心境です。

平和な時代とは前提が違う。

今の若い世代の皆さんも、もしあの時代に生きていれば、

同じ心境になったと私は思います。

(『特攻最後の証言』古武登志夫著より)

 

 

私たちが知っている特攻隊員

私たちが知っている『特攻』の知識は、

太平洋戦争末期、敗色濃くなった戦況を打破し、大日本帝国勝利の為、自らの命を捨て敵艦に突入した帝国軍人。

最期の言葉は、「天皇陛下、万歳!」

軍によりマインドコントロールされ、軍国主義に染まり、大日本帝国が勝つと信じ、死ぬこともいとわない狂気となり、敵艦に突入していった若者たち。

このような感じだったのでは、ないでしょうか。

 

特攻22

特攻を受けた護衛空母ガンビア・ベイ

 

 

真実の特攻隊員とは?

特攻隊に志願した若者たちは、鬼でも悪魔でもなく、ましてや軍に騙されていたわけでも、感情のない機械の一部品でもなかったのです。

ただ一途に、大東亜戦争が劣勢となる中、愛する人を、愛する子らを自分の命に代えて守りたい。大切な故郷を、そして祖国を、アメリカの魔の手から守りたいと心から念じ、特攻隊員に、自らの強い意志を持って志願したのです。

アメリカインディアン、フィリピン、そしてハワイの惨劇を知っていた彼らは、もしこのままアメリカ軍が日本本土に上陸したならば、女は幼子に至るまで強姦され、多くの混血児が生まれ、歯向かう男は獣の如く虐殺され、意気地のないアメリカ人の言いなりになる日本人だけが生き残るだけとなり、日本が独立国家として立ちいかなくなることを、はっきりと認識していたのです。

特攻に出撃した若者の真実の姿とは、「愛する祖国を守る為に命を捧げる」覚悟を、強い意志(決意)として持っていましたが、私たちが教えられてきたほど、軍国主義一辺倒には染まっていなかったのです。

学徒出陣組に至っては、今の大学生では足元にも及ばない高い教養と知識、高い志(こころざし)と強い意志、幼少より鍛えられた非常に優れた運動神経、そして、今の日本人がGHQのマインドコントロールによって持つことが出来なくなってしまった『愛国心』(※郷土愛)を、溢れんばかりに持っていたのです。

現代でしたら、みんなから尊敬される、超エリートになれたでしょう。

日本が負けることを感じていた隊員も、多かったのです。

しかし、「負けるにも、負け方がある!」

大東亜戦争が終わった後の日本人が、故郷の家族が、愛する恋人が、アジアの植民地のような白人の奴隷とならず、白人に一目置かれる存在となる為には、

「日本人の本気の恐ろしさを、この一撃をもって見せつける」

多くの特攻隊員は、大義の為、死ぬことをいとわず、祖国を守り抜く決意をもって飛び立っていったのです。

神風22

 

物量豊富な米軍の反攻を受け、戦勢日々傾く状況の下では、とてもこの戦争に勝てるとは思えなかったが、美しい郷土の山河を、優しい父母の住む町を、むざむざ敵に蹂躙させてたまか!

国家危急存亡のとき、若者が奮い立たなかったら、大和民族の歴史に拭いきれない汚点を残すでしょう。悩み苦しみ抜いた挙げ句、だれもがそんな気持ちで特攻隊を志願したものでした。

「お前たちだけを死なせはしない。俺も必ず後から行く・・・・」

 

 

お奨めの動画

九段/英霊来世AreiRaise

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家族への手紙

これは特別攻撃隊員の、最後の手紙です。

 

愛児への便り  海軍大尉 植村 真久 (神風特別攻撃隊大和隊、東京都出身、立教大学、昭和十九年十月二十六日、比島海域にて戦死、二十五歳)

素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。

私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。    私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまつても、決して悲しんではなりません。

お前が大きくなつて、父に會ひたい時は九段(靖国神社)へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。父はお前は幸福ものと思ひます。生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。

お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讀んで貰ひなさい。

昭和十九年○月吉日

植村素子へ

追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へてあげます。                       (英霊の言乃葉 靖国神社編集・発行)

 

a 昭和19年11月、下志津基地から比島に向けて九九式襲撃機で出撃する八紘第6隊・石腸隊

 

遺書 正憲、紀代子へ

父ハ、スガタコソミエザルモ、イツデモオマエタチヲミテイル。 ヨク、オカアサンノイイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオオキクナッタレバ、ジブンノスキナミチニススミ、リッパナニホンジンニナルコトデス。 ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。

「マサノリ」、「キヨコ」、オトウサンハ、カミサマニナッテ、フタリヲジットミテイマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトウサンハ「マサノリ」、「キヨコ」ノ、オウマ(お馬)ニハナレマセンケレドモ、フタリナカヨクシナサイヨ。

オトウサンハ、オオキナジュウバク(重爆撃機)ニノッテ、テキヲゼンブヤッツケタ、ゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オトウサンノカタキヲウッテクダサイ。 父ヨリ マサノリ、 キヨコ     フタリヘ             昭和20年4月6日出撃 愛知県 29歳

                         (5歳と3歳の幼児への遺書)

渋谷健一陸軍少佐 特別攻撃隊振 31歳

『娘に宛てた手紙』 (一部抜粋)

 父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十才に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅はかなる思慮にて、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総体当たりを行ひ、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給ふ。真に国難といふべきなり。父は悠久の大義に生きるなり。 一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父も又幼少にして父母を病に亡くしたれど決して明るさを失はずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。父恋しと思はば、空を視よ、大空に浮ぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎ふ。 二、素直に育て、戦勝っても国難は去るにあらず、世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。

特攻51

葉桜隊の零戦一機が襲った空母「フランクリン」

特攻52

お奨めの動画

Kamikaze Attacks

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・特攻隊教官の証言

 

特攻隊の教官だった方に、お聞きしたことがあります。

「特攻に行く何日か前からは、彼らと語り合うんです。

話すことは、故郷(ふるさと)や両親、兄弟姉妹、友達のことがほとんどでした。

故郷がどんなに忘れられないところなのか。

我々は、ただ、ただ、聞くのみでした。

言葉が、出なかった。

最期は、『故郷(ふるさと)の歌』を、みんなで歌うんです。

我々残る者たちには、一つだけ厳命されていたことがありました。

「決して、彼らの前で涙を見せるな」と。

ちょっとでも気を許すと、とめどもなく涙があふれ出てしまう。

しかし、命を捨てる彼らの苦悩を思う時、どんなことをしてでも、涙だけは流せません。

本当に、苦しかった。

七〇年近く経った今でも、思い出すと、とめどもなく涙が出てきてしようもないのです。

毎年、八月になると気が狂ってしまうのではないかと思うくらい、頭がおかしくなってしまうのです。

若い隊員になると、まだ一七,八歳の子供ですよ。

飛行技術だって、やっと飛べるレベルだった。

そんな子供たちは、死にたくないに決まっているじゃないですか。

誰も、「死にたい」なんて考えていませんよ。

でも、愛する家族を、愛する日本を、アメリカの魔の手から守るために、特攻に志願したんです。

特攻直前になっても、まだ、ふん切りは、つかない。

だから、遺書を書くんです。

自分に書くんです、「死ぬ覚悟」をつけるために。

飛び立って、タイヤを落とした時に、初めて、ふん切りがつくんです。

我々は、彼らの前では絶対に泣くなと厳命されていました。

飛び立つ時、笑顔で大きく手を振り、最後の一機が飛び立つと、みな後ろを向いて泣いていました。

「おかあさん!」

いよいよ敵艦に突入する時、みんな、こう叫んだと思います。

命がけで生んでくれて、誰よりも自分を慈しみ育ててくれたお母さんを、最後の最後までしのんで死んでいったんです。

軍隊にいると、何人もの死に際に立ち会うんですけどね。最後は声を振り絞って、聞こえるか聞こえないくらいのか細い声で、「お母さん」と言って、多くの戦友は死んでいくんです。

本当に、昔の日本のお母さんって、偉大ですよ。

 

特攻26少年航空兵出身の18歳から19歳の10人と学徒出陣の4名

この写真に笑顔を残してから1時間半後の、昭和20年4月22日午前10時、

台湾北部の桃園飛行場から沖縄本島方面に特攻出撃、散華された。

(たちあがれ日本 西村眞悟 ホームページより引用)

 

戦後70年近く経って、90歳を超えた元陸軍士官(航空技術将校)だった方にお話をお伺いしたのですが、話されている最中にも目を腫らし、涙をため、時々言葉を詰まらせながら、でも大変優しいまなざしをもってお話し下さいました。常に「生き残ってしまって申し訳ない」と靖国に眠る英霊に詫びられているそうです。

 

この方は、聖将と呼ばれ部下からだけでなく、最初に侵攻したインドネシアではいまだに絶大なる人気を誇り、その後の駐屯地ラバウルの現地住民や敵国軍人からも尊敬を集めた今村均陸軍大将のご子息で、戦後は、戦前からあった『新幹線計画』実現のため、陸・海軍の飛行機野郎たち(航空技術士官)120名余りと共に国鉄(現JR)で技術開発に従事し、世界に誇る新幹線をこの世に送り出されました。

初出勤日、国鉄には「軍閥(ぐんばつ)来る!」の大きな垂れ幕があったそうです。そのような逆境化でも、黙々と研究され、ついには、世界中見渡しても100kmを出すのがやっとであった鉄道(日本が作った満州鉄道のみが120km)で、200kmを優に超える「夢の超特急」新幹線の登場を見たのです。

その後、請われて防衛庁に勤務、防衛大の教授などを歴任後、「命の電話」、「自殺予防センター」の初代理事長として、90歳を超えた今でも、人生の崖の淵にたたずんで苦しんでいる方々への最後の糸、「自殺ホットライン」で夜を徹して電話を受けられ、彼らの話をただただ聞き、痛みに寄り添うことで、何とか生きる希望を見出してもらおうとボランティアをされています。

 

神風特攻隊員たちの遺書

http://www.youtube.com/watch?v=_QOXodCXpTs

 

 

ある特攻隊員の軌跡

栗村少尉は大東亜戦争の最中、昭和18年、旧制小樽高商を繰り上げ卒業し、一旦は民間企業に就職が決定していた。しかし、「危急存亡の折、小生止むに止まれぬ熱意に燃えて」海軍に志願した。その際、両親に「一時的な興奮より発したものではない事を申上げ、両親のご寛容をお願い申し上げます。」と手紙に書き送っている。  同年九月三重航空隊に仮入隊、同年10月4日入隊式が執り行われ「第十三期飛行専修予備学生」として厳しい訓練に励むことになったのである。その後、無事訓練を終え、昭和19年夏に帰省を許され、家族と最後の別れの時間を過ごした。この時の様子を実妹の千恵子さんが追悼集に書き記している。

家族との別れ  家族は皆、帰省した理由を「最後の別れに帰された。」という一言で、分かりきる程分っていた。それでも会えた事は、うれしかった。会えた喜びと、もう飛び立って行くのだという悲しみと淋しさが微妙にからみ合って、いいようのない複雑な心境であった。 皆、表面で笑って、心で泣いていたのかも知れない。  その後は、母の手料理で、郷里の家で過した。一夜語りつくしたのかも知れない。何時に休んだのかも覚えていない。ほんとうに限られた貴重な夜だったのである。

 母が後になって、ぽつり、ぽつりと話してくれた事だが、正教さんはその夜、母にきっぱりと言ったそうだ。

特攻27 本入隊後の栗村少尉

「この戦争は、どんな事をしても、もう勝つ見込みはないんです。それでも僕は、行かねばならないんです。必死で、ここまで育ててくださったのに、何の親孝行もできずに行く事は、つらいし、僕は戦争なんかきらいですが、でも、今の日本の現状から考えるとしかたないんです」

兄の目は、赤かったという。

母は只、うなずいてあげるだけで何も言えなかったと言っていた。

二泊の休暇のうち二日目はお母さんの叔父さんが経営していた旅館「日吉館」に家族で宿泊した。 ここでの記念写真は家族の大切な宝物になっている。 そしてこの日の朝は家族との永遠の別れの朝であった。千恵子さんは次のように記している。 朝が来た。

みんな静かに起き出していた。

私もうつらうつらしながら、どうしようかな、と思っていた。

その時、私の顔に、ポタリ、ポタリと熱い涙が落ちてきた。それは、正教さんの涙だったのだ。自分は起き、まだ起きない私の寝顔を見つめているうちに、つい涙がこぼれてしまったのだろう、と私は思った。でもほんとうは、「母を頼むよ。」と心の中で言っていたのかも知れない。  私は寝たふりをしながら、涙が止まるのを待った。しかし、私も悲しくなり、目頭に涙が丸くなって溜まるのを覚えた。それが、兄妹の別れだった。  今生最後の別れをした朝、栗村少尉はすっきりとした顔で家族におくられ、元気に出発した。

特攻出撃

昭和20年5月10日、栗村少尉に出撃の命令が下された。栗村少尉の所属していた菊水雷桜隊は5月11日5時10分、串良基地より出撃し、沖縄周辺の敵艦船を攻撃すべし、という内容であった。 ただし、命令には帰投予定まで記されている。つまり命令では体当たり特攻ではなかったということになる。しかし、それまでの菊水作戦で無事帰還した雷撃隊員は1名もおらず、当然それを知っていた彼らには固い決意があったに違いない。  5月11日早朝、今井全四郎少尉(予13期)を小隊長とする菊水雷桜隊は小雨の中、串良より戦友に見送られながら出撃して行った。菊水雷桜隊は天山10機で構成されており、30名の若人達が還らぬ旅路を黙々と敵艦隊目指して進んでいった。(引用、写真:栗村正教五〇回忌追悼集「春愁」(栗村好編)、「玉砕戦と特別攻撃隊」(新人物往来社)、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会会報「特攻」)

特攻29石腸隊、出撃前夜の風景 (昭和19年12月4日)

 

 

特攻隊員、最後の手紙

 

穴沢利夫少尉

福島県出身 中央大学卒 陸軍特別操縦見習士官1期 陸軍特別攻撃隊 第20振武隊 昭和20年4月12日沖縄周辺洋上にて戦死 23才

穴沢少尉には智恵子さんという婚約者がおられた。二人は昭和16年にそれぞれが学生であったときに知り合い、交際を始めたのです。当時、学生同士の恋愛ははしたないものと言われていました。しかし二人の間は本当に純粋な愛情で強く結ばれていたのです。 (引用:群青)

「婚約者への遺言」 二人で力を合わせてつとめてきたがついに実を結ばずに終わった。希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていたのだ。 時期を失する といふ事が実現してしまったのである。去年十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く状況は急転した。発信は当分禁止された。転々と所を変えつつ多忙の毎日を送った。そして今、晴の出撃の日を迎えたのである。便りを書き度い、書く事はうんとある。然し、そのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたのご両親、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さったご親切、全く月並みの御礼の言葉では済み切れぬけれど、「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。今は従に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれる事を信じる。しかし、それとは別個に婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。

「あなたの幸せを望ふ以外に何物もない」  「従らに過去の少義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」  「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」「あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ、穴沢は現実の世界にはもう存在しない」

極めて抽象的にながれたかも知れぬが、将来に生起する具体的な場面場面に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言うのである。今更何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言ってみたい。 1、読みたい本「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」 2、観たい画「ラファエル 聖母子像」「芳崖 非母観音」 3、智恵子。会いたい。話したい、無性に。

 

特攻28昭和20年4月12日、特別攻撃隊「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」に乗って知覧を出撃する穴沢少尉に手を振る九州・知覧女学院の生徒たち。

彼女たちは特攻隊員の出撃前の世話をしていた。 事前の検閲のある中、彼女らは多くの遺書を密かに預かった。

 

相花信夫 少尉

第七十七振武隊 昭和20年5月4日出撃戦死 18歳

母上お元気ですか 永い間本当に有難うございました 我六歳の時より育て下されし母 継母とは言え世の此の種の女にある如き

不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし 母 有り難い母 尊い母

俺は幸福だった

遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だったろう 母上お許し下さい

さぞ淋しかったでしょう 今こそ大声で呼ばして頂きます お母さん お母さん お母さんと

 

特攻33

特攻34

富澤幸光中尉

北海道出身 北海道第二師範学校卒 海軍第十三期飛行科予備学生 神風特別攻撃隊第十九金剛隊 昭和20年1月6日、爆装零戦に搭乗し比島マバラカット基地を出撃、リンガエン湾にて戦死 23歳 (引用:「英霊の言乃葉(2)」)

お父上様 お母上様

ますます御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。

お正月もきました。 幸光は靖國で二十四歳を迎へることにしました。 靖國神社の餅は大きいですからね。 (中略)

父様、母様は日本一の父様、母様であることを信じます。お正月になつたら軍服の前にたくさん御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思ひ出話をするのも間近かでせう。

靖國神社では、また甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つてゐます。 きっと来て下さるでせうね。

本日、恩賜のお酒をいただき感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。 私がやらねば、父様、母様が死んでしまう。否、日本国が大変なことになる。 幸光は誰にも負けずきつとやります。 (中略)

母上様の写真は幸光の背中に背負ってゐます。母上様も幸光と共に御奉公だよ、いつでも側にいるよ、と言って下さつてゐます。心強いかぎりです。

 

荒木幸雄 伍長

特攻38子犬を抱く少年は15歳で親元を離れ飛行学校へ、17歳で特攻に参加した荒木伍長。

特攻出撃2時間前の写真。

アメリカ海軍のレーダーピケット駆逐艦「ブレイン」(USS Braine, DD-630)に突入したと
推測されている。
周りの飛行兵たちも全員17歳~18歳で、愛する人たちを守る為、祖国のために散華され、
今は靖国神社に御霊が眠る。
 
最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段(靖国神社)で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら
陸軍伍長 荒木幸雄


大石伍長は大阪大空襲で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くした。妹思いの兄は、給与
のほとんどを、一人残され、伯父の元に引き取られていった小学生の妹に送金し、様々な手紙
をやりとりしたという。妹(静恵)へ宛てた特攻出撃直前に書いた最後の手紙を整備担当の
大野沢威徳氏に預け、散華された。 出典:神坂次郎著『今日われ生きてあり』

 

おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼い静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。

兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であずけてゐたうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上がるときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のおぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。

もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ!

整備兵、大野沢威徳からの手紙(万世基地にて)

 大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げきされました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

 伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやうを大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこしや落下さんのバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

 伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

 伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。 さやうなら

 

神風特別攻撃隊、大西中将

神風特別攻撃隊を提唱したとされる海軍中将大西瀧治郎は、開戦以前から山本五十六に次ぐ日本航空の大建物であり、昭和一二年、戦艦大和、武蔵の製造に関し一方を廃止し五万トン以下にすれば空母が三つ作れると主張し、昭和一五年には「航空軍備に関する研究」も提出している。 また連合艦隊参謀の福留繁大佐に対し、「大和一つの建造費で1,000機の戦闘機ができる」と主張し、今すぐ建造を中止するように要望するなど、先見の明が高い軍人であった。実は、大西は海軍内にあった特攻思想に「統帥の外道である」と反対し最も距離を置く人物であったが、神風特別攻撃隊の提唱者としての責任を一身に引き受け、今次大戦に勝利しても割腹自殺を決めていた武士道精神を持った軍人であった。

昭和20年8月16日、大西は遺書を残し自刃した。「特攻隊の英霊に申す」で始まる遺書を遺して割腹自決。自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために夜半から未明にかけ、内臓が飛び出したまま半日以上(およそ15時間)激痛に苦しみながら、腹心の児玉誉士夫に看取られ死んでいった。享年54。

 

特攻40特攻隊(敷島隊)を前にした大西瀧治郎中将

 遺 書

特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す 最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり 然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす 次に一般青壮年に告ぐ 我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い 聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり 隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ 諸士は国の宝なり 平時に処し猶お克く 特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と 世界人類の和平の為 最善を尽せよ

                                海軍中将 大西瀧治郎

 

特攻とは、なんであったのか

ダバオにて

昭和19年11月下旬、角田氏は特攻隊員として辻口兵曹、鈴村兵曹とともにダバオに派遣された。到着した夜、歓迎会が開かれた。司令部からの参加者は司令官上野少将、参謀長小田原大佐、先任参謀誉田中佐、飛行隊長添山大尉であった。  皆、大変暖かい人々で、隊内でやっと見つけた椰子酒も特攻隊員だけにと、自分たちにはいくら勧めても受けなかった。また、上野少将が自分たちの前で一言も口を利かなかったことが角田氏にとって印象深かかった。その理由は戦後わかることとなる。   そんな中、小田原参謀長から特攻の趣旨について聞かされているかとの質問があり、角田氏は良く分からなかったと答えた。参謀長はしばらく考えた後に話し始めた。

特攻の真意

特攻41

航空司令長官・大西滝治朗中将(「玉砕戦と特別攻撃隊」より引用)

「そうか、それではもう一度分かりやすく私から話そう」と、言葉を選ぶように静かに話しだした。 「皆も知っているかも知れないが、大西長官(大西滝治朗中将)はここへ来る前は軍需省の要職におられ、日本の戦力については誰よりも一番良く知っておられる。各部長よりの報告は全部聞かれ、大臣へは必要なことだけを報告しているので、実情は大臣よりも各局長よりも一番詳しく分かっている訳である。その長官が、『もう戦争は続けるべきではない』とおっしゃる。『一日も早く講和を結ばなければならぬ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパン、成都にいつでも内地を爆撃して帰れる大型爆撃機を配している。残念ながら、現在の日本の戦力ではこれを阻止することができない。それに、もう重油、ガソリンが、あと半年分しか残っていない。  軍需工場の地下建設を進めているが、実は飛行機を作る材料のアルミニウムもあと半年分しかないのだ。工場はできても、材料がなくては生産を停止しなければならぬ。燃料も、せっかく造った大型空母信濃を油槽船に改造してスマトラより運ぶ計画を立てているが、とても間に合わぬ。半年後には、かりに敵が関東平野に上陸してきても、工場も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなる。  そうなってからでは遅い。動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。

 敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分味方に三分である。具体的には満州事変の昔に返ることである。勝ってこの条件なのだ。残念ながら日本はここまで追いつめられているのだ。  万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは敵に回して恐ろしい国である。歴史に見るインデアンやハワイ民族のように、指揮系統は寸断され、闘魂のある者は次々各個撃破され、残る者は女子供と、意気地の無い男だけとなり、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の戦場にしなければならない。  このことは、大西一人の判断で考え出したことではない。東京を出発するに際し、海軍大臣と高松宮様に状況を説明申し上げ、私の真意に対し内諾を得たものと考えている。  宮様と大臣とが賛成された以上、これは海軍の総意とみて宜しいだろう。ただし、今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。宮様といえでも講和の進言などされたことが分かったなら、命の保証はできかねない状態なのである。もし、そのようなことになれば陸海軍の抗争を起こし、強敵を前にして内乱ともなりかねない。  極めて難しい問題であるが、これは天皇陛下御自ら決められるべきことなのである。宮様や大臣や総長の進言によるものであってはならぬ』とおっしゃるのだ。

特攻43昭和191025日、関行男大尉率いる「神風特攻隊・敷島隊」の第一陣が飛び立った。(マバラカット飛行場)

 では、果たしてこの特攻によって、レイテより敵を追い落とすことができるであろうか。これはまだ長官は誰にも言わない。同僚の福留長官にも、一航艦の幕僚にも話していない。しかし、『特攻を出すには、参謀長に反対されては、いかに私でもこれはできない。他の幕僚の反対は押さえることができるが、私の参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』  として、私にだけ話されたことであるが、私は長官ほど意志が強くない。自分の教え子が(参謀長は少佐飛行隊長の頃、一時私たち飛行練習生の教官だったことがあり、私の筑波空教員の頃は連合練習航空隊先任参謀で、戦闘機操縦員に計器飛行の指導に当たられた。当時、大西少将は司令官だった)妻子まで捨てて特攻をかけてくれようとしているのに、黙り続けることはできない。長官の真意を話そう。長官は、特攻によるレイテ防衛について、

  『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。  一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。  二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族 は再興するであろう、ということである。

 陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、青年将校でも、随わざるを得まい。日本民族を救う道がほかにあるであろうか。戦況は明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。  しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては飽くまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。

特攻44昭和19年年10月25日、神風特別攻撃隊の敷島隊が突入した護衛空母セントロー;空母艦載機用爆弾に引火し誘爆、大爆発を起こし沈没

 大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。  もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』と仰った。私に策はないので同意した。これが私の聞いた長官の真意である。長官は、『私は生きて国の再建に勤める気はない。講和後、建て直しのできる人はたくさんいるが、この難局を乗り切れる者は私だけである。』と、繰り返し、『大和、武蔵は敵に渡しても決して恥ずかしい艦ではない。宮様は戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しいと仰せられた』とまで言われたのだ」

 角田氏は小田原参謀長のこの話は、自分たちのみではなく一言も口を利かない上野少将に対する長官の伝言ではないか、また、小田原参謀長も長官の後を追う気だと感じたとのことである。

(『修羅の翼』角田和男著より引用)

 

「一足お先に逝って待っています」

藤井一少佐

 藤井中尉は茨城県の農家に生まれた。7人兄弟の長男であった。陸軍に志願し、歩兵となったが、特別に優秀であったため転科して陸軍航空士官学校に入校した。卒業後、熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていた。  精神訓育とは生徒達に、軍人勅諭に沿った軍人精神をたたき込む重要な鍛錬であった。忠誠心が強く熱血漢の藤井中隊長は、厳しい教官であるとともに、心根が優しく、生徒たちから慕われていた。藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っていた。  その後、特攻作戦が開始され、自分の教え子たちが教えのとおり特攻出撃していく事となってしまった。あの純粋な教え子たちが次から次へと特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしていることに堪えられなかった。なんと、藤井中尉は教え子たちとの約束を果たすべく自らも特攻に志願したのである。  しかし、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、支那事変(日中戦争)で迫撃砲の破片を受けた左腕の為にパイロットにはなれなかった藤井中尉は、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、断られても、断られても二度までも特攻に志願していた。

 

悲劇

藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育った。戦争中は野戦看護婦として活躍していた。そもそも藤井中尉との出会いは、支那で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんであったということである。このような馴れ初めである。福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほど解っていた。しかし、解っているからといって特攻の許可さえ出ない人が、特攻志願することに納得できるものではない。福子さんは夫を説得しようと必死だった。妻として二人の幼子の母として哀願もした。子供を盾にまでして必死に戦った。しかし、藤井中尉の決意は最後まで変わらなかった。  夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近くにある荒川(埼玉県)に入水自殺した。  翌日の昭和19年12月15日早朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が近所の住人によって発見された。すぐに遺体が藤井中尉の妻と子供であることが判明、熊谷飛行学校に連絡された。

知らせを受けた藤井中尉は、同僚の鳴田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけた。車の中で、藤井は、「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけはかんべんしてくれ、解ってくれ」 と、呻(うめ)くような声で言った。  鳴田には、慰めの言葉は見つからなかった。

師走の荒川の河川敷は、凍てついた風が容赦なく吹きつける。  歯が噛み合わないほどに寒い。  凍てついた川の流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、ふく子の最後の願いを物語るように、三人いっしょに紐で結ばれたまま、蟻(ひな)人形のように仲良さげに並んでいた。その遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」という意味のことが書かれていた。副子、24歳であった。  凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と子供たちの姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、優しくさするように白い肌についた砂を払い、そして呻くように泣いていた。 葬式は、軍の幹部と、家族と隣り組だけで済まされた。教え子たちの参列は禁じられ一人の姿もなかった。  涙を誘うこの悲惨な事件に、各社の新聞記者も飛びついた。しかし、軍と政府の通告によって報道が差し止められ、記事はいっさい新聞にもラジオにも出なかった。

 

三度目の特攻志願  

藤井中尉はこの事件の直後、三度目の特攻志願を行った。今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行ったのである。   藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった。教えは厳しいが熱血漢で情に厚いということで、生徒達は藤井中尉を信頼し、尊敬し、あこがれを持っていた。藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈った。藤井中尉は大変喜んでいた。藤井はにこやかに、その軍刀を抜くと「これで奴らを一人残らず叩き切ってやるっ!」と刀を高くかざした。藤井の笑顔に、みんなも笑顔で答えた。事件のことは藤井も話さず、誰も口にするものはいなかった。しかし、全員すでに知っており、藤井を惜しみ、藤井の心を分かって流す涙がさらに深く辛いものであったことは間違いない。

藤井は熊谷飛行学校を去る時、中隊長室に生徒を一人一人呼び、家族のことや思い出話を聞いた。そして、最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励まし特攻隊の訓練地へと旅立った。

娘への手紙  藤井中尉は三人の葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに手紙を書いた。一枚目は桜の花の絵、二枚目は子犬と蝶と共に戯れている幼子の絵の便箋である。

 

冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。

母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、

一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、

母とともに消え去った命がいとほしい。

父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。

嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。

それまで泣かずに待っていてください。

千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。

ではしばらく左様なら。

父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。

では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。

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藤井中尉の出撃

藤井中尉は、昭和20年5月27日、陸軍特別攻撃隊 第45振武隊快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。

翌5月28日、まだ夜も明けきらぬ早朝、隊員10名と共に沖縄に向けて出撃した。藤井中尉は小川彰少尉の操縦する二式双発襲撃機に通信員として搭乗し、沖縄でレーダー哨戒任務だった米駆逐艦ドレクスラーに命中。教え子達、そして愛する家族との約束をやっと果たすことが出来たのである。 死後、二階級特進にて少佐となる。享年29歳。    (引用、参考:「特攻の町知覧」、昭和史の証言(2)「特攻散華」)

 

特攻46決心隊の隊員たちと。前列左端が小川彰少尉、その右隣が藤井一中尉。 小川少尉は、訓練中の事故で亡くなった戦友の遺骨を抱いている。

 

神風特攻隊はフィリピンで英雄だった

(小学館『SAPIO』平成12年12月20日号 井上和彦「PHOTO & REPORT 神風特攻隊はフィリピンで英雄だった」より抜粋)

濛々と立ちあがる砂埃と共に、日章旗とフィリピン国旗を握り締めた子供達の一団が押し寄せてきた。子供達は、バンバン村を去ろうとする、我々日本人一行に大歓声を上げて「日の丸」を振りつづけるのだった……。

 

特攻51 平成12年10月25日、フィリピンでは、パンパンガ州マバラカットをメインに、タルラック州バンバン、同州カパスの三カ所で、「神風特別攻撃隊」をはじめ戦没者の慰霊祭が挙行された。

慰霊祭の取材にやってきたフィリピン人ジャーナリスト・ジョジョ・P・マリグ氏(25)は語る。 「この式典は日本とフィリピンの関係を知るよい機会です。私は先の大戦で戦ったすべての愛国者は“英雄”だと考えています。とりわけその尊い生命を国家に捧げた神風特攻隊員は尊敬すべき“英雄”だと思います。またカミカゼ・アタックを決断した大西瀧治郎中将も本物の“武士です」 フィリピン空軍軍楽隊の奏でる勇壮な『軍艦マーチ』が、マバラカット飛行場を見下ろすリリー・ヒルの大地を揺さぶった。  神風特攻隊も戦後の日本では“戦争の悲劇”の代名詞としてしか語られていない。ところが、“カミカゼ”を最初に生んだフィリピンでは、その捉え方がまったく違っていた式典に参列したダニエル・H・ディゾン画伯(70)は静かに語る。 「いまから35年前に私は神風特攻隊の本を読みました。涙がとまらなかった。……こんな勇気や忠誠心をそれまで聞いたことがなかったからです。  同じアジア人として、このような英雄がマバラカットと私の町アンヘレスで誕生したことを“誇り”に思っています」(※神風特別攻撃隊の公式記録では、敷島隊が最初となっており、このマバラカット飛行場より飛び立った)  昭和49年、特攻隊の生き様に感動したディゾン画伯は、神風特攻隊慰霊碑の建立を思い立ち、マバラカット市長に進言した。そして画伯が感銘を受けた『神風特別攻撃隊』の著者である中島正氏(元201航空隊飛行長)・猪口力平氏(元第1航空艦隊参謀)の協力を仰ぎながら、やっとの思いでマバラカット飛行場跡地に慰霊碑を建立することができたのだ。  私の方に向きなおった画伯は右手に拳をつくって語気を強めた。 「当時、白人は有色人種を見下していました。これに対して日本は、世界のあらゆる人種が平等であるべきだとして戦争に突入していったのです。  神風特別攻撃隊は、そうした白人の横暴に対する力による最後の“抵抗”だったといえましょう」  そしてディゾン画伯は、両手を固く結んで私に託すのだった。  「神風特攻隊をはじめ、先の大戦で亡くなった多くの日本軍人をどうか敬っていただきたい。これは私から日本の若者たちへのメッセージです…」東南アジア諸国の中でも「反日的」と思われがちなフィリピンで、こんな考えを持つ人物に出会うとは思わなかった。さらに、私にはディゾン画伯の、「私達フィリピン人は白人支配の犠牲者ですよ」という言葉が耳について離れない。 この“疑問符”を取り払ってくれたのは、地元通訳のマリオ・ピネダ氏(73)の証言だった。 「かつて日本の統治を受けた台湾や韓国を見てください。立派に経済的な繁栄を遂げているでしょう。これは日本が統治下で施した“教育”の成果です。  ……ですが、アメリカの統治を受けたフィリピンでは、自分たちでモノを作ることを学ばせてもらえなかった。人々は鉛筆すら作ることができなかったのですよ。アメリカが自分達の作ったものを一方的にフィリピンに売りつけてきたからでした」 これまでフィリピンが“親米反日的”と思われてきたのは、大東亜戦争でこの地が日米両軍の決戦場となったからにほかならない。日本軍はこの地で約50万人(全戦没者の約4分の1)の将兵を失ったが、戦場となったフィリピンの人々は一般市民を含む180万人が犠牲となった。 ところが、こうしたフィリピン人犠牲者の多くは、アメリカ軍の無差別爆撃や艦砲射撃によるものだったのである。むろん、この事実を地元の人々が知らないわけがない。 日本人にとってのこうした“初耳”は、数え上げれば枚挙にいとまがない。 日米の攻防戦が繰り広げられたサマット山頂の博物館には、日本軍が地元住民に医療処置を施し、友好的な交流があった事実を物語る写真が堂々と掲げられてもいる。

 

特攻52フィリピン独立記念日のポスター

 

在フィリピン邦人向けテレビ局「WINSチヤンネル」のキャスターでウインズ・インターナショナルの社長・水島総氏(五一)は、このあたりについて次のように説明する。 「フィリピン人は日本で伝えられているような“反日”などではなく、むしろ親日的ですよ…。フィリピンの人々は戦争に対しては日本人よりも“リアリスト”です。戦争があれば多少なりとも悲劇はあると、現実的な考え方をしています。ですからフィリピンの人々は日本を責めようなどとは思っていません

タルラック州バンバン村でも神風特攻隊の慰霊祭が行なわれた。

この村でも地元住民は村を挙げて日本の慰霊囲を歓迎した。 そして、冒頭に記したように、帰路につこうとする我々を子供達は「日の丸」の小旗をちぎれんばかりに打ち振って見送ってくれたのである。 日本人参列者はこの光景に胸を詰まらせていた。頬を濡らす者もいた。 子供達の「日の丸」行進はどこまでも続いた。 式典に参加した地元サン・ロック高校の女子学生達は声を揃える。 「Brave!」(勇敢) その中の一人が続けた。 「フィリピンにも“英雄”はたくさんいます。ですから私達も神風特攻隊という日本の“英雄”をたいへん尊敬しています……」

引率の男性教師は、「こうした歴史教育を通して、『子供達に国を守ることの大切さ』を知ってほしいのです」と語る。私は学生達にもう一度訊いた。 「君達は、カミカゼのパイロットを尊敬しているのですね」 屈託のない笑顔で皆は答えた。

「もちろんです! だって、あの人達はヒーローですもの」

 

特別攻撃隊の英霊にささげる

 

アンドレ・マルローの言葉

「日本は太平洋戦争に敗れはしたが、そのかわり何ものにもかえ難いものを得た。これは、世界のどんな国も真似のできない特別特攻隊である。ス夕-リン主義者たちにせよナチ党員たちにせよ、結局は権力を手に入れるための行動であった。日本の特別特攻隊員たちはファナチック(狂信者)だったろうか。断じて違う。彼らには権勢欲とか名誉欲などはかけらもなかった。祖国を憂える貴い熱情があるだけだった。代償を求めない純粋な行為、そこにこそ真の偉大さがあり、逆上と紙一重のファナチズムとは根本的に異質である。人間はいつでも、偉大さへの志向を失ってはならないのだ。   戦後にフランスの大臣としてはじめて日本を訪れたとき、私はそのことをとくに陛下に申し上げておいた。   フランスはデカルトを生んだ合理主義の国である。フランス人のなかには、特別特攻隊の出撃機数と戦果を比較して、こんなに少ない撃沈数なのになぜ若いいのちをと、疑問を抱く者もいる。そういう人たちに、私はいつも言ってやる。「母や姉や妻の生命が危険にさらされるとき、自分が殺られると承知で暴漢に立ち向かうのが息子の、弟の、夫の道である。愛する者が殺められるのをだまって見すごせるものだろうか?」と。私は、祖国と家族を想う一念から恐怖も生への執着もすべてを乗り越えて、 いさぎよく敵艦に体当たりをした特別特攻隊員の精神と行為のなかに男の崇高な美学を見るのである」   二十世紀の思想を代表するフランスの文人アンドレ・マルローは、こういうと床に視線を落としたまましばし瞑黙した。

元リヨン大学客員教授(フランス)で特操(特別操縦見習士官)三期出身の長塚隆ニ氏は、特攻隊員に対する戦後の急激な評価の変化、その純粋な心を傷つける輩の態度に憤りを感じていた。氏が昭和49年夏、パリ南方郊外にアンドレ・マルロー氏を訪れた際に聞かれたお話です。

アンドレ・マルロー:フランスの作家、冒険家、政治家。1945年11月から1946年1月にかけてフランス臨時政府の情報相に任命された。1947年、ド・ゴールが創設したフランス国民連合に参加、広報を担当する。ド・ゴールが下野していた1950年代には『芸術の心理』や『空想美術館』など芸術や美術に関する著作を発表している。1958年6月、ド・ゴール政権成立によって再び情報相を拝命し、一九六〇年から1969年にかけて文化相に在任。この間、1965年には訪中して毛沢東と会見。1974年、訪日し、熊野・那智の瀧や伊勢神宮に参拝、日本文化に深く親しんでいる。 (略歴はウイキペディアより引用)

 

hakkou10taijyungitai特別攻撃出撃前に遙か皇居に遙拝する八紘第10隊・殉義隊

 

 

 

ぜひ靖国へ、そして知覧(鹿児島県)へ足をお運びください。

 

 

お勧めの本

いざさらば我はみくにの山桜 靖国神社

国民の遺書 小林よしのり責任編集 産経新聞出版

 

 

 

ご覧いただきたい神風特攻隊の遺書

http://www.geocities.jp/kamikazes_site/isyo/isyo.html

 

 

ご覧いただきたいインターネット(動画)

神風特攻隊 「命の使い方」~日本人として知っておきたいこと~

http://www.youtube.com/watch?v=5w5TC4ppsIE

【静ちゃんへの手紙】~神風特攻隊員の兄と幼き妹~

http://www.youtube.com/watch?v=nQ0AN524pF4

世界が語る神風特別攻撃隊―カミカゼはなぜ世界で尊敬されるのか

http://www.youtube.com/watch?v=buELxe1Wwa4

神風特別攻撃隊

http://www.dailymotion.com/video/xjc8l_iiiiiii_music

陸軍特攻隊

http://www.youtube.com/watch?v=T6RiyY4zQOo

忘れてはならないもの 知覧特攻平和会館

http://www.youtube.com/watch?v=OfHKiV1-z_s

神風特別攻撃隊 実際の映像

http://www.youtube.com/watch?v=0eXsQo-CpOg

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