特攻 8 「一足お先に逝って待っています」
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捨てさせられた、日本人の誇り
大東亜戦争に負け、アメリカGHQの「日本弱体化計画」に基づき徹底して捨てさせられてしまった「平和を愛した日本人の誇り」を理解せずして、この項を理解することは難しいと思います。
日本人の誇りとは、戦争へ向かうための考え方ではないのですが、日本を崩壊させようとする左翼な人々(日教組・マスコミ・大学の教授たち)により、戦前まで持っていた「世界から賞賛されていた日本人の高い魂」は貶され、「軍国主義」好戦的な民族と取られるような誤った見方になるよう、私たちは洗脳されてしまいました。
少しでも、「誇り高き日本人の魂」の真の姿をお知りになりたい方は、下記の本を読まれることをお勧めします。
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歴史街道 2013.7号
「八重と会津戦争 理不尽を許さず」 の項
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この本をしっかりと読まれた上で、この項を読まれると、はっきりと日本人の素晴らしさ、凄さ、そして白人たちが、なぜ、家畜としか見做していなかった有色異人種の中で、唯一、日本人だけを尊敬し同時に恐れたかが、良く解ります。
「義と誇りのために生きてきた日本人」
「ならぬものは、ならぬ!」
「私では無く、人のため、公のために尽くす」
このことは、決して戦争礼賛ではなく、白人絶対至上主義と軍事力による有色人種支配の当時に於いて人種差別撤廃と世界平和に資した確証であり、世界で最も精神文明が高かった証しなのです。
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藤井一少佐
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藤井中尉は茨城県の農家に生まれた。7人兄弟の長男であった。陸軍に志願し、歩兵となったが、特別に優秀であったため転科して陸軍航空士官学校に入校した。卒業後、熊谷陸軍飛行学校に赴任し、中隊長として少年飛行兵に精神訓育を行っていた。
精神訓育とは生徒達に、軍人勅諭に沿った軍人精神をたたき込む重要な鍛錬であった。
忠誠心が強く熱血漢の藤井中隊長は、厳しい教官であるとともに、心根が優しく、生徒たちから慕われていた。藤井中尉は特攻作戦が実施される前から「事あらば敵陣に、あるいは敵艦に自爆せよ、中隊長もかならず行く」と繰り返し言っていた。
その後、特攻作戦が開始され、自分の教え子たちが教えのとおり特攻出撃していく事となってしまった。あの純粋な教え子たちが次から次へと特攻出撃していく中、責任感が強く熱血漢であった藤井中尉は自分だけが安全な任務をしていることに堪えられなかった。
「自分の教えを守って、次々と将来ある純粋な教え子たちが毎日、敵艦に突っ込んで行く。あいつも、あいつも・・・。 俺はいつまでこんなことをしているのか」
なんと、藤井中尉は教え子たちとの約束を果たすべく自らも特攻に志願したのである。
しかし、妻と幼子二人をかかえ、学校でも重要な職務を担当しており、支那事変(日中戦争)で迫撃砲の破片を受けた左腕の為にパイロットにはなれなかった藤井中尉は、当然、志願が受け入れられるはずもなかった。さらには学校を仕切っている重要な任務を離れられては困るからであった。しかし、藤井中尉は生徒達との約束を守るため、断られても、断られても二度までも特攻に志願していた。
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悲 劇
藤井中尉の妻、福子さんは高崎の商家に生まれ、お嬢さんとして育った。戦争中は野戦看護婦として活躍していた。そもそも藤井中尉との出会いは、支那で負傷した藤井中尉の世話をしたのが福子さんであったということである。
このような馴れ初めである。
福子さんは当然、藤井中尉の性格や考えが十分過ぎるほど解っていた。
しかし、解っているからといって特攻の許可さえ出ない人が、特攻志願することに納得できるものではない。
福子さんは夫を説得しようと必死だった。妻として二人の幼子の母として哀願もした。子供を盾にまでして必死に戦った。しかし、藤井中尉の決意は最後まで変わらなかった。
夫の決意を知った福子さんは、二人の幼子を連れて飛行学校の近くにある荒川(埼玉県)に入水自殺した。
翌日の昭和19年12月15日早朝、晴れ着を着せた次女千恵子ちゃん(1歳)をおんぶし、長女一子ちゃん(3歳)の手と自分の手をひもで結んだ3人の痛ましい遺体が近所の住人によって発見された。
すぐに遺体が藤井中尉の妻と子供であることが判明、熊谷飛行学校に連絡された。
知らせを受けた藤井中尉は、同僚の鳴田准尉といっしょに警察の車で現場に駆けつけた。車の中で、藤井は、「俺は、今日は涙を流すかも知れない。今日だけはかんべんしてくれ、解ってくれ」 と、呻(うめ)くような声で言った。
鳴田には、慰めの言葉は見つからなかった。
師走の荒川の河川敷は、凍てついた風が容赦なく吹きつける。 歯が噛み合わないほどに寒い。
凍てついた川の流れの中を一昼夜も漂っていた母子三人の遺体は、ふく子の最後の願いを物語るように、三人いっしょに紐で結ばれたまま、蟻(ひな)人形のように仲良さげに並んでいた。
その遺書には「私たちがいたのでは後顧の憂いになり、思う存分の活躍ができないでしょうから、一足お先に逝って待っています」という意味のことが書かれていた。副子、24歳であった。
凍てつくような12月の荒川べり、変わり果てた愛する妻と子供たちの姿を見て、藤井中尉はその前にうずくまり、優しくさするように白い肌についた砂を払い、そして呻くように泣いていた。
葬式は、軍の幹部と、家族と隣り組だけで済まされた。教え子たちの参列は禁じられ一人の姿もなかった。 涙を誘うこの悲惨な事件に、各社の新聞記者も飛びついた。しかし、軍と政府の通告によって報道が差し止められ、記事はいっさい新聞にもラジオにも出なかった。
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三度目の特攻志願
藤井中尉はこの事件の直後、三度目の特攻志願を行った。今度は自らの小指を切り、血書嘆願であった。今度ばかりは軍も諸般の事情から志願を受理した。すでに誰もが、藤井には死しかないと理解できていた。藤井中尉を特攻隊員として異例の任命を行ったのである。
藤井中尉は熊谷飛行学校で生徒達に大変人気があった。教えは厳しいが熱血漢で情に厚いということで、生徒達は藤井中尉を信頼し、尊敬し、あこがれを持っていた。
藤井中尉の送別会では、学校の幹部や生徒達で集めたお金で軍刀を贈った。
藤井中尉は大変喜んでいた。
藤井はにこやかに、その軍刀を抜くと「これで奴らを一人残らず叩き切ってやるっ!」と刀を高くかざした。藤井の笑顔に、みんなも笑顔で答えた。
事件のことは藤井も話さず、誰も口にするものはいなかった。しかし、全員すでに知っており、藤井を惜しみ、藤井の心を分かって流す涙がさらに深く辛いものであったことは間違いない。
藤井は熊谷飛行学校を去る時、中隊長室に生徒を一人一人呼び、家族のことや思い出話を聞いた。そして、最後には「これからの日本を頼むぞ」と言って、若い教え子たちを励まし特攻隊の訓練地へと旅立った。
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娘への手紙
藤井中尉は三人の葬式が終わった後、長女の一子ちゃんあてに手紙を書いた。
一枚目は桜の花の絵、二枚目は子犬と蝶と共に戯れている幼子の絵の便箋である。
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冷え十二月の風の吹き飛ぶ日 荒川の河原の露と消し命。
母とともに殉国の血に燃ゆる父の意志に添って、一足先に父に殉じた哀れにも悲しい、然も笑っている如く喜んで、母とともに消え去った命がいとほしい。
父も近くお前たちの後を追って行けることだろう。
嫌がらずに今度は父の暖かい懐で、だっこしてねんねしようね。
それまで泣かずに待っていてください。
千恵子ちゃんが泣いたら、よくお守りしなさい。
ではしばらく左様なら。
父ちゃんは戦地で立派な手柄を立ててお土産にして参ります。
では、一子ちゃんも、千恵子ちゃんも、それまで待ってて頂戴。
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藤井中尉の出撃
藤井中尉は、昭和20年5月27日、陸軍特別攻撃隊 第45振武隊快心隊の隊長として知覧飛行場に進出。
翌5月28日、まだ夜も明けきらぬ早朝、隊員10名と共に沖縄に向けて出撃した。
「われ突入する」の電信を最後に、還らぬ人となりました。
藤井中尉は小川彰少尉の操縦する二式双発襲撃機に通信員として搭乗し、沖縄でレーダー哨戒任務だった米駆逐艦ドレクスラーに命中。
教え子達、そして愛する家族との約束をやっと果たすことが出来たのである。
死後、二階級特進にて少佐となる。享年29歳。
(引用、参考:「特攻の町知覧」、昭和史の証言(2)「特攻散華」)
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前列左端が小川彰少尉、その右隣が藤井一中尉。 小川少尉は、訓練中の事故で亡くなった戦友の遺骨を抱いている。
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確認したい動画
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神風特攻隊 「命の使い方」~日本人として知っておきたいこと~
http://www.youtube.com/watch?v=5w5TC4ppsIE
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「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9