特攻 7 海軍中将 大西瀧治郎
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「神風特別攻撃隊の生みの親?」大西中将
神風特別攻撃隊を提唱したとされる海軍中将大西瀧治郎は、開戦以前から山本五十六に次ぐ日本航空の大建物であり、昭和12年、戦艦大和、武蔵の製造に関し一方を廃止し5万トン以下にすれば空母が3つ作れると主張し、昭和15年には「航空軍備に関する研究」も提出している。
また連合艦隊参謀の福留繁大佐に対し、「大和一つの建造費で1,000機の戦闘機ができる」と主張し、今すぐ建造を中止するように要望するなど、先見の明が高い軍人であった。
実は、大西は海軍内にあった特攻思想に「統帥の外道である」と反対し最も距離を置く人物であったが、神風特別攻撃隊の提唱者としての責任を一身に引き受け、今次大戦に勝利しても割腹自殺を決めていた武士道精神を持った軍人であった。
昭和20年8月16日、大西は遺書を残し自刃した。「特攻隊の英霊に申す」で始まる遺書を遺して割腹自決。
自決に際してはあえて介錯を付けず、また「生き残るようにしてくれるな」と医者の手当てを受けることすら拒み、特攻隊員にわびるために夜半から未明にかけ、内臓が飛び出したまま半日以上(およそ15時間)激痛に苦しみながら、腹心の児玉誉士夫に看取られ死んでいった。享年54。
特攻隊(敷島隊)を前にした大西瀧治郎中将
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遺 書
特攻隊の英霊に申す 善く戦いたり深謝す
最後の勝利を信じつつ肉弾として散花せり
然れ共其の信念は遂に達成し得ざるに至れり、吾死を以って旧部下の英霊と其の遺族に謝せんとす
次に一般青壮年に告ぐ
我が死にして軽挙は利敵行為なるを思い 聖旨に副い奉り自重忍苦するの誡ともならば幸なり
隠忍するとも日本人たるの矜持を失う勿れ
諸士は国の宝なり
平時に処し猶お克く 特攻精神を堅持し 日本民族の福祉と 世界人類の和平の為 最善を尽せよ
海軍中将 大西瀧治郎
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特攻とは、なんであったのか
ダバオにて
昭和19年11月下旬、角田氏は特攻隊員として辻口兵曹、鈴村兵曹とともにダバオに派遣された。
到着した夜、歓迎会が開かれた。
司令部からの参加者は司令官上野少将、参謀長小田原大佐、先任参謀誉田中佐、飛行隊長添山大尉であった。
皆、大変暖かい人々で、隊内でやっと見つけた椰子酒も特攻隊員だけにと、自分たちにはいくら勧めても受けなかった。また、上野少将が自分たちの前で一言も口を利かなかったことが角田氏にとって印象深かかった。
その理由は戦後わかることとなる。
そんな中、小田原参謀長から特攻の趣旨について聞かされているかとの質問があり、角田氏は良く分からなかったと答えた。参謀長はしばらく考えた後に話し始めた。
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特攻の真意
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「そうか、それではもう一度分かりやすく私から話そう」と、言葉を選ぶように静かに話しだした。
「皆も知っているかも知れないが、大西長官(大西滝治朗中将)はここへ来る前は軍需省の要職におられ、日本の戦力については誰よりも一番良く知っておられる。各部長よりの報告は全部聞かれ、大臣へは必要なことだけを報告しているので、実情は大臣よりも各局長よりも一番詳しく分かっている訳である。その長官が、『もう戦争は続けるべきではない』とおっしゃる。
『一日も早く講和を結ばなければならぬ。マリアナを失った今日、敵はすでにサイパン、成都にいつでも内地を爆撃して帰れる大型爆撃機を配している。残念ながら、現在の日本の戦力ではこれを阻止することができない。それに、もう重油、ガソリンが、あと半年分しか残っていない。
軍需工場の地下建設を進めているが、実は飛行機を作る材料のアルミニウムもあと半年分しかないのだ。工場はできても、材料がなくては生産を停止しなければならぬ。燃料も、せっかく造った大型空母信濃を油槽船に改造してスマトラより運ぶ計画を立てているが、とても間に合わぬ。半年後には、かりに敵が関東平野に上陸してきても、工場も飛行機も戦車も軍艦も動けなくなる。
そうなってからでは遅い。
動ける今のうちに講和しなければ大変なことになる。
しかし、ガダルカナル以来、押され通しで、まだ一度も敵の反抗を喰い止めたことがない。このまま講和したのでは、いかにも情けない。一度で良いから敵をこのレイテから追い落とし、それを機会に講和に入りたい。
敵を追い落とすことができれば、七分三分の講和ができるだろう。七、三とは敵に七分味方に三分である。
具体的には満州事変の昔に返ることである。
勝ってこの条件なのだ。
残念ながら日本はここまで追いつめられているのだ。
万一敵を本土に迎えるようなことになった場合、アメリカは敵に回して恐ろしい国である。歴史に見るインデアンやハワイ民族のように、指揮系統は寸断され、闘魂のある者は次々各個撃破され、残る者は女子供と、意気地の無い男だけとなり、日本民族の再興の機会は永久に失われてしまうだろう。
このためにも特攻を行ってでもフィリッピンを最後の戦場にしなければならない。
このことは、大西一人の判断で考え出したことではない。
東京を出発するに際し、海軍大臣と高松宮様に状況を説明申し上げ、私の真意に対し内諾を得たものと考えている。 宮様と大臣とが賛成された以上、これは海軍の総意とみて宜しいだろう。ただし、今、東京で講和のことなど口に出そうものなら、たちまち憲兵に捕まり、あるいは国賊として暗殺されてしまうだろう。死ぬことは恐れぬが、戦争の後始末は早くつけなければならぬ。
宮様といえでも講和の進言などされたことが分かったなら、命の保証はできかねない状態なのである。もし、そのようなことになれば陸海軍の抗争を起こし、強敵を前にして内乱ともなりかねない。
極めて難しい問題であるが、これは天皇陛下御自ら決められるべきことなのである。宮様や大臣や総長の進言によるものであってはならぬ』とおっしゃるのだ。
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昭和19年10月25日、関行男大尉率いる「神風特攻隊・敷島隊」の第一陣が飛び立った
(マバラカット飛行場)
では、果たしてこの特攻によって、レイテより敵を追い落とすことができるであろうか。これはまだ長官は誰にも言わない。同僚の福留長官にも、一航艦の幕僚にも話していない。
しかし、『特攻を出すには、参謀長に反対されては、いかに私でもこれはできない。他の幕僚の反対は押さえることができるが、私の参謀長だけは私の真意を理解して賛成してもらいたい。他言は絶対に無用である』として、私にだけ話されたことであるが、私は長官ほど意志が強くない。
自分の教え子が(参謀長は少佐飛行隊長の頃、一時私たち飛行練習生の教官だったことがあり、私の筑波空教員の頃は連合練習航空隊先任参謀で、戦闘機操縦員に計器飛行の指導に当たられた。当時、大西少将は司令官だった)妻子まで捨てて特攻をかけてくれようとしているのに、黙り続けることはできない。長官の真意を話そう。長官は、特攻によるレイテ防衛について、
『これは、九分九厘成功の見込みはない、これが成功すると思うほど大西は馬鹿ではない。では何故見込みのないのにこのような強行をするのか、ここに信じてよいことが二つある。
一つは万世一系仁慈をもって国を統治され給う天皇陛下は、このことを聞かれたならば、必ず戦争を止めろ、と仰せられるであろうこと。
二つはその結果が仮に、いかなる形の講和になろうとも、日本民族が将に亡びんとする時に当たって、身をもってこれを防いだ若者たちがいた、という事実と、これをお聞きになって陛下御自らの御仁心によって戦さを止めさせられたという歴史の残る限り、五百年後、千年後の世に、必ずや日本民族 は再興するであろう、ということである。
陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられたならば、いかなる陸軍でも、青年将校でも、随わざるを得まい。
日本民族を救う道がほかにあるであろうか。
戦況は明日にでも講和をしたいところまで来ているのである。
しかし、このことが万一外に洩れて、将兵の士気に影響をあたえてはならぬ。さらに敵に知れてはなお大事である。講和の時期を逃してしまう。敵に対しては飽くまで最後の一兵まで戦う気魄を見せておらねばならぬ。敵を欺くには、まず味方よりせよ、という諺がある。
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昭和19年年10月25日、神風特別攻撃隊の敷島隊が突入した護衛空母セントロー;空母艦載機用爆弾に引火し誘爆、大爆発を起こし沈没
大西は、後世史家のいかなる批判を受けようとも、鬼となって前線に戦う。講和のこと、陛下の大御心を動かし奉ることは、宮様と大臣とで工作されるであろう。
天皇陛下が御自らのご意志によって戦争を止めろと仰せられた時、私はそれまで上、陛下を欺き奉り、下、将兵を偽り続けた罪を謝し、日本民族の将来を信じて必ず特攻隊員たちの後を追うであろう。
もし、参謀長にほかに国を救う道があるならば、俺は参謀長の言うことを聞こう、なければ俺に賛成してもらいたい』と仰った。
私に策はないので同意した。
これが私の聞いた長官の真意である。
長官は、『私は生きて国の再建に勤める気はない。講和後、建て直しのできる人はたくさんいるが、この難局を乗り切れる者は私だけである。』と、繰り返し、『大和、武蔵は敵に渡しても決して恥ずかしい艦ではない。宮様は戦争を終結させるためには皇室のことは考えないで宜しいと仰せられた』とまで言われたのだ」
角田氏は小田原参謀長のこの話は、自分たちのみではなく一言も口を利かない上野少将に対する長官の伝言ではないか、また、小田原参謀長も長官の後を追う気だと感じたとのことである。
(『修羅の翼』角田和男著より引用 )
「正しい日本の歴史」 (目次)
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