特攻 6 特攻隊員、最後の手紙

On 2013年5月12日

 

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 「ただ一途に、祖国の危機の前に敢然(かんぜん)と立ち向かった若い特攻隊員たちの悠久の偉功を、決してないがしろにしてはならない」

戦没海軍飛行予備学生の遺族会 理事長  杉 暁夫

 

 

特攻24画面をクリックすると綺麗に見れます

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沢利夫 少尉

福島県出身 中央大学卒 陸軍特別操縦見習士官1期 陸軍特別攻撃隊 第20振武隊 昭和20年4月12日沖縄周辺洋上にて戦死 23才

穴沢少尉には智恵子さんという婚約者がおられた。二人は昭和16年にそれぞれが学生であったときに知り合い、交際を始めたのです。当時、学生同士の恋愛ははしたないものと言われていました。しかし二人の間は本当に純粋な愛情で強く結ばれていたのです。 (引用:群青)

 

「婚約者への遺言」

二人で力を合わせてつとめてきたがついに実を結ばずに終わった。

希望を持ちながらも心の一隅であんなにも恐れていたのだ。 時期を失する といふ事が実現してしまったのである。

去年十日、楽しみの日を胸に描きながら池袋の駅で別れたが、帰隊直後、我が隊を直接取り巻く状況は急転した。発信は当分禁止された。転々と所を変えつつ多忙の毎日を送った。そして今、晴の出撃の日を迎えたのである。

便りを書き度い、書く事はうんとある。

し、そのどれもが今迄のあなたの厚情に御礼を言う言葉以外の何物でもないことを知る。あなたのご両親、兄様、姉様、妹様、弟様、みんないい人でした。至らぬ自分にかけて下さったご親切、全く月並みの御礼の言葉では済み切れぬけれど、「ありがとうございました」と最後の純一なる心底から言っておきます。

今は従に過去に於ける長い交際のあとをたどりたくない。問題は今後にあるのだから。常に正しい判断をあなたの頭脳は与えて進ませてくれる事を信じる。しかし、それとは別個に婚約をしてあった男性として、散ってゆく男子として、女性であるあなたに少し言って征きたい。

「あなたの幸せを望ふ以外に何物もない」  「従らに過去の少義に拘るなかれ。あなたは過去に生きるのではない」  「勇気をもって過去を忘れ、将来に新活面を見出すこと」「あなたは今後の一時々々の現実の中に生きるのだ、穴沢は現実の世界にはもう存在しない」

極めて抽象的にながれたかも知れぬが、将来に生起する具体的な場面場面に活かしてくれる様、自分勝手な一方的な言葉ではないつもりである。純客観的な立場に立って言うのである。今更何を言うかと自分でも考えるが、ちょっぴり欲を言ってみたい。

1、読みたい本「万葉」「句集」「道程」「一点鐘」「故郷」

2、観たい画「ラファエル 聖母子像」「芳崖 非母観音」

3、智恵子。会いたい。話したい、無性に。

 

特攻28昭和20年4月12日、特別攻撃隊「第二十振武隊」隊員として一式戦闘機「隼」に乗って知覧を出撃する穴沢少尉に手を振る九州・知覧女学院の生徒たち

彼女たちは特攻隊員の出撃前の世話をしていた。 

事前の検閲のある中、彼女らは多くの遺書を密かに預かった。

 

前田笙子(知覧高女三年、十五歳)の手記

昭和二十年四月十一日  晩、二十振武隊、六十九振武隊、三十振武隊のお別れの会が食堂であった。(略) みんな一緒に「空から轟沈」の歌をうたふ。ありったけの声でうたったつもりだったが何故か声がつまって涙があふれ出てきた。森要子さんと「出ませう」と兵舎の外に出て、思ふ存分、泣いた。私たちの涙は決して未練の涙ではなかったのです。明日は敵艦もろともになくなられる身ながら、今夜はにっこりと笑って、酔って戯れていらっしゃる姿を拝見して、ああ、これでこそ日本は強いのだと、あまりにも嬉しく有難い涙だったのです。それなのに、私たちが帰るとき「お世話になった、ありがたう」とお礼をいはれた。なんと立派な方々ばかりでせう。森さんと抱きあって、また、泣いてしまった。

昭和二十年四月十二日  (略)隊長さんは私たちを始動車にのせて、戦闘指揮所まで送ってくださった。出撃なさる直前のあわただしい最中なのに、どこまでやさしい隊長さんでせう。 始動車の上から振り返ると、特攻機の、桜の花にうづまった操縦席から手をふっていらっしゃる。(略)つづいて離陸する二十振武隊の穴沢少尉さんの隼機が、目の前を地上滑走して出発線に向ってゆく。私たちが一生懸命にお別れの桜の枝を振ると、にっこり笑った八巻姿の穴沢さんが、何回も敬礼された。 ・・・特攻機が全部飛びたったあと、私たちはぼんやりと、いつまでも南の空を見上げてゐた。涙が、いつかあふれ出てゐた。抱きあって、しゃがみこみ、みんなで泣いた。

 

 

相花信夫 少尉

第七十七振武隊 昭和20年5月4日出撃戦死 18歳

母上お元気ですか 永い間本当に有難うございました 我六歳の時より育て下されし母 継母とは言え世の此の種の女にある如き

不祥事は一度たりとてなく 慈しみ育て下されし 母 有り難い母 尊い母

俺は幸福だった

遂に最後迄「お母さん」と呼ばざりし俺 幾度か思い切って呼ばんとしたが 何と意志薄弱な俺だったろう 母上お許し下さい

さぞ淋しかったでしょう 今こそ大声で呼ばして頂きます お母さん お母さん お母さんと

 

特攻33

特攻34

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富澤幸光 中尉

北海道出身 北海道第二師範学校卒 海軍第十三期飛行科予備学生 神風特別攻撃隊第十九金剛隊 昭和20年1月6日、爆装零戦に搭乗し比島マバラカット基地を出撃、リンガエン湾にて戦死 23歳  (引用:「英霊の言乃葉(2)」)

お父上様 お母上様

ますます御達者でお暮らしのことと存じます。幸光は闘魂いよいよ元気旺盛でまた出撃します。

お正月もきました。 幸光は靖國で二十四歳を迎へることにしました。 靖國神社の餅は大きいですからね。

父様、母様は日本一の父様、母様であることを信じます。お正月になつたら軍服の前にたくさん御馳走をあげて下さい。雑煮餅が一番好きです。ストーブを囲んで幸光の思ひ出話をするのも間近かでせう。

靖國神社では、また甲板士官でもして大いに張り切る心算です。母上様、幸光の戦死の報を知つても決して泣いてはなりません。靖國で待つてゐます。 きっと来て下さるでせうね。

本日、恩賜のお酒をいただき感激の極みです。敵がすぐ前に来ました。 私がやらねば、父様、母様が死んでしまう。否、日本国が大変なことになる。 幸光は誰にも負けずきつとやります。 

母上様の写真は幸光の背中に背負ってゐます。母上様も幸光と共に御奉公だよ、いつでも側にいるよ、と言って下さつてゐます。心強いかぎりです。

 

 

荒木幸雄 伍長

特攻38子犬を抱く少年は15歳で親元を離れ飛行学校へ

17歳で特攻に参加した荒木伍長と特攻を共にする仲間

みんな、晴れやかな少年の笑顔である 

特攻出撃2時間前の写真です

荒木伍長は、アメリカ海軍のレーダーピケット駆逐艦「ブレイン」(USS Braine, DD-630)
に突入したと推測されている。
周りの飛行兵たちも全員17歳~18歳で、愛する人たちを守る為、祖国のために散華され、
今は靖国神社に御霊が眠る。
 
最后の便り致します
其後御元気の事と思ひます
幸雄も栄ある任務をおび
本日出発致します。
必ず大戦果を挙げます
桜咲く九段(靖国神社)で会う日を待って居ります
どうぞ御身体を大切に
弟達及隣組の皆様にも宜敷く さようなら
陸軍伍長 荒木幸雄

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大石清 伍長

大石伍長は大阪大空襲で父を失い、つづいて重病だった母親も亡くした。妹思いの兄は、給与
のほとんどを、一人残され、伯父の元に引き取られていった小学生の妹に送金し、様々な手紙
をやりとりしたという。妹(静恵)へ宛てた特攻出撃直前に書いた最後の手紙を整備担当の
大野沢威徳氏に預け、散華された。 出典:神坂次郎著『今日われ生きてあり』

大石清の日記──
〈昭和二十年四月一日、快晴
 新宮の伯父より電報あり。母、重態。父の死の衝撃と旅の疲れが原因ならん。鎌本軍曹殿の厚情により、区隊長殿から休暇を受く。本日十五時、新宮に向ふ。出発時、軍曹殿から見舞金を頂戴する。この温情、死すとも忘るべからず。父を失ひたる病床の母、幼なき妹、暗澹たる思ひ。車中にて涙流るゝ〉

第六航空軍本部への鎌本軍曹の書状──
〈一、ト号隊員ノ遺族ニ関スル相談。
〔相談〕隊員大石清伍長ノ父ハ国民学校訓導ナルモ先日殉職シ(四十四歳)、家ニハ重病ノ母(四十四歳)、妹(十一歳)一人ナリ。家産ナク父ノ収入ニテ生活シアリタリ。家族ノ生活ヲ保証スル方法ナキヤ〉

大石清の日記──
〈昭和二十年四月八日、曇後晴
十九時、帰隊。母の死を区隊長殿、鎌本軍曹殿に申告す。われ新宮到着の前日、母すでに逝かれてありたり。母の遺骨、父の遺品とともに丹鶴城の桜の見ゆる木下家の墓地の一隅に葬る。「(妹の)米子は、小(こま)い頃からお城の花が好きぢやつた」と伯父上の御言葉。ただ有難し。伯父上への手みやげ、航空ウイスキイ、煙草。美代子伯母上にはドロップ、落下傘のマフラー。妹にチョコレート、乾パン。
妹のことを伯父上にたのみ、新宮駅にて訣別。妹泣く。伯父上夫婦も泣く。せめてあと数日、妹の傍に居りてやりたし〉

〈四月二十二日、晴
午後、特攻攻撃に関する学科あり。九七戦を爆装及燃料タンクを装着すれば150Kに速度が落ちるといふ……。
わが命、ながくともあと一ケ月ならむか。妹へ写真、伯父上夫婦に鎌本軍曹はじめ隊員みなが集めてくれた志の航空糧食、煙草その他を小包にして送る。(なかに隊員一同からの妹への激励文、みんなの集合写真を入れる)

 

『妹への手紙』
   〈静ちやん お便りありがたう。何べんも何べんも読みました。お送りしたお金、こんなに喜んでもらへるとは思ひませんでした。神だな(棚)などに供へなくてもよいから、必要なものは何でも買つて、つかつて下さい。兄ちやんの給料はうんとありますし、隊にゐるとお金を使ふこともありませんから、これからも静ちやんのサイフが空つぽにならない様、毎月おくります。では元気で、をぢさん、をばさんによろしく。
兄ちやんより〉

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『大石伍長の遺書』
  〈なつかしい静ちやん!
おわかれの時がきました。兄ちやんはいよいよ出げきします。この手紙がとどくころは、沖なはの海に散つてゐます。思ひがけない父、母の死で、幼ない静ちやんを一人のこしていくのは、とてもかなしいのですが、ゆるして下さい。
兄ちやんのかたみとして静ちやんの名であづけてゐたいうびん(郵便)通帳とハンコ、これは静ちやんが女学校に上るときにつかつて下さい。時計と軍刀も送ります。これも木下のをぢさんにたのんで、売つてお金にかへなさい。兄ちやんのかたみなどより、これからの静ちやんの人生のはうが大じなのです。
もうプロペラがまはつてゐます。さあ、出げきです。では兄ちやんは征きます。泣くなよ静ちやん。がんばれ!〉

 

『整備兵、大野沢威徳からの手紙』(万世基地にて)

 大石静恵ちやん、突然、見知らぬ者からの手紙でおどろかれたことと思ひます。わたしは大石伍長どのの飛行機がかりの兵隊です。伍長どのは今日、みごとに出げきされました。そのとき、このお手紙をわたしにあづけて行かれました。おとどけいたします。

 伍長どのは、静恵ちやんのつくつたにんぎやうを大へんだいじにしてをられました。いつも、その小さなにんぎやうを飛行服の背中につつてをられました。ほかの飛行兵の人は、みんなこしや落下さんのバクタイ(縛帯)の胸にぶらさげてゐるのですが、伍長どのは、突入する時にんぎやうが怖がると可哀さうと言つておんぶでもするやうに背中につつてをられました。飛行機にのるため走つて行かれる時など、そのにんぎやうがゆらゆらとすがりつくやうにゆれて、うしろからでも一目で、あれが伍長どのとすぐにわかりました。

 伍長どのは、いつも静恵ちやんといつしよに居るつもりだつたのでせう。同行二人・・・・仏さまのことばで、さう言ひます。苦しいときも、さびしいときも、ひとりぽつちではない。いつも仏さまがそばにゐてはげましてくださる。伍長どのの仏さまは、きつと静恵ちやんだつたのでせう。けれど、今日からは伍長どのが静恵ちやんの”仏さま”になつて、いつも見てゐてくださることゝ思ひます。

 伍長どのは勇かんに敵の空母に体当たりされました。静恵ちやんも、りつぱな兄さんに負けないやう、元気を出してべんきやうしてください。 さやうなら

 

特攻007

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