特攻 4  ある特攻隊員の軌跡

On 2013年5月12日

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海軍入隊

栗村少尉は大東亜戦争の最中、昭和18年、旧制小樽高商を繰り上げ卒業し、一旦は民間企業に就職が決定していた。しかし、「危急存亡の折、小生止むに止まれぬ熱意に燃えて」海軍に志願した。その際、両親に「一時的な興奮より発したものではない事を申上げ、両親のご寛容をお願い申し上げます。」と手紙に書き送っている。  

同年九月三重航空隊に仮入隊、同年10月4日入隊式が執り行われ「第十三期飛行専修予備学生」として厳しい訓練に励むことになったのである。

その後、無事訓練を終え、昭和19年夏に帰省を許され、家族と最後の別れの時間を過ごした。この時の様子を実妹の千恵子さんが追悼集に書き記している。

家族との別れ  

家族は皆、帰省した理由を「最後の別れに帰された。」という一言で、分かりきる程分っていた。それでも会えた事は、うれしかった。会えた喜びと、もう飛び立って行くのだという悲しみと淋しさが微妙にからみ合って、いいようのない複雑な心境であった。 皆、表面で笑って、心で泣いていたのかも知れない。  その後は、母の手料理で、郷里の家で過した。一夜語りつくしたのかも知れない。何時に休んだのかも覚えていない。ほんとうに限られた貴重な夜だったのである。

母が後になって、ぽつり、ぽつりと話してくれた事だが、正教さんはその夜、母にきっぱりと言ったそうだ。

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特攻27

本入隊後の栗村少尉

 

「この戦争は、どんな事をしても、もう勝つ見込みはないんです。それでも僕は、行かねばならないんです。必死で、ここまで育ててくださったのに、何の親孝行もできずに行く事は、つらいし、僕は戦争なんかきらいですが、でも、今の日本の現状から考えるとしかたないんです」

兄の目は、赤かったという。

母は只、うなずいてあげるだけで何も言えなかったと言っていた。 

二泊の休暇のうち二日目はお母さんの叔父さんが経営していた旅館「日吉館」に家族で宿泊した。 ここでの記念写真は家族の大切な宝物になっている。 そしてこの日の朝は家族との永遠の別れの朝であった。千恵子さんは次のように記している。

朝が来た。

みんな静かに起き出していた。

私もうつらうつらしながら、どうしようかな、と思っていた。

その時、私の顔に、ポタリ、ポタリと熱い涙が落ちてきた。それは、正教さんの涙だったのだ。自分は起き、まだ起きない私の寝顔を見つめているうちに、つい涙がこぼれてしまったのだろう、と私は思った。でもほんとうは、「母を頼むよ。」と心の中で言っていたのかも知れない。  私は寝たふりをしながら、涙が止まるのを待った。しかし、私も悲しくなり、目頭に涙が丸くなって溜まるのを覚えた。それが、兄妹の別れだった。  

今生最後の別れをした朝、栗村少尉はすっきりとした顔で家族におくられ、元気に出発した。

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特攻出撃

昭和20年5月10日、栗村少尉に出撃の命令が下された。栗村少尉の所属していた菊水雷桜隊は5月11日5時10分、串良基地より出撃し、沖縄周辺の敵艦船を攻撃すべし、という内容であった。 ただし、命令には帰投予定まで記されている。つまり命令では体当たり特攻ではなかったということになる。しかし、それまでの菊水作戦で無事帰還した雷撃隊員は1名もおらず、当然それを知っていた彼らには固い決意があったに違いない。  

5月11日早朝、今井全四郎少尉(予13期)を小隊長とする菊水雷桜隊は小雨の中、串良より戦友に見送られながら出撃して行った。菊水雷桜隊は天山10機で構成されており、30名の若人達が還らぬ旅路を黙々と敵艦隊目指して進んでいった。

(引用、写真:栗村正教五〇回忌追悼集「春愁」(栗村好編)、「玉砕戦と特別攻撃隊」(新人物往来社)、特攻隊戦没者慰霊平和祈念協会会報「特攻」)

 

特攻29腸隊、出撃前夜の風景 (昭和19年12月4日) 

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