特攻 2 家族への手紙
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これは特別攻撃隊員の、最後の手紙です。
愛児への便り
海軍大尉 植村 真久 (神風特別攻撃隊大和隊、東京都出身、立教大学、昭和十九年十月二十六日、比島海域にて戦死、二十五歳)
素子、素子は私の顔をよく見て笑ひましたよ。私の腕の中で眠りもしたし、またお風呂に入つたこともありました。素子が大きくなつて私のことが知りたい時は、お前のお母さん、佳代伯母様に私の事をよくお聴きなさい。
私の写真帳もお前の為に家に残してあります。素子といふ名前は私がつけたのです。 素直な、心の優しい、思ひやりの深い人になるやうにと思つて、お父様が考へたのです。 私は、お前が大きくなつて、立派な花嫁さんになつて、仕合せになつたのを見届けたいのですが、若しお前が私を見知らぬまま死んでしまつても、決して悲しんではなりません。
お前が大きくなつて、父に會ひたい時は九段(靖国神社)へいらつしやい。そして心に深く念ずれば、必ずお父様のお顔がお前の心の中に浮びますよ。
父はお前は幸福ものと思ひます。
生まれながらにして父に生きうつしだし、他の人々も素子ちやんを見ると真久さんに会つてゐる様な気がするとよく申されてゐた。またお前の伯父様、伯母様は、お前を唯一つの希望にしてお前を可愛がつて下さるし、お母さんも亦、御自分の全生涯をかけて只々素子の幸福をのみ念じて生き抜いて下さるのです。
必ず私に万一のことがあつても親なし児などと思つてはなりません。父は常に素子の身辺を護つて居ります。
優しくて人に可愛がられる人になつて下さい。
お前が大きくなつて私の事を考へ始めた時に、この便りを讀んで貰ひなさい。
昭和十九年○月吉日
父
上村素子へ
追伸、素子が生まれた時おもちやにしてゐた人形は、お父さんが頂いて自分の飛行機にお守りにして居ります。だから素子はお父さんと一緒にゐたわけです。素子が知らずにゐると困りますから教へてあげます。
(英霊の言乃葉 靖国神社編集・発行)
昭和19年11月、下志津基地から比島に向けて九九式襲撃機で出撃する八紘第6隊・石腸隊
遺書 正憲、紀代子へ
父ハ、スガタコソミエザルモ、イツデモオマエタチヲミテイル。 ヨク、オカアサンノイイツケヲマモッテ、オカアサンニシンパイヲカケナイヨウニシナサイ。ソシテオオキクナッタレバ、ジブンノスキナミチニススミ、リッパナニホンジンニナルコトデス。 ヒトノオトウサンヲウラヤンデハイケマセンヨ。
「マサノリ」、「キヨコ」、オトウサンハ、カミサマニナッテ、フタリヲジットミテイマス。フタリナカヨクベンキョウヲシテ、オカアサンノシゴトヲテツダイナサイ。オトウサンハ「マサノリ」、「キヨコ」ノ、オウマ(お馬)ニハナレマセンケレドモ、フタリナカヨクシナサイヨ。
オトウサンハ、オオキナジュウバク(重爆撃機)ニノッテ、テキヲゼンブヤッツケタ、ゲンキナヒトデス。オトウサンニマケナイヒトニナッテ、オトウサンノカタキヲウッテクダサイ。 父ヨリ マサノリ、 キヨコ フタリヘ 昭和20年4月6日出撃 愛知県 29歳
(5歳と3歳の幼児への遺書)
渋谷健一陸軍少佐 特別攻撃隊振 31歳
『娘に宛てた手紙』 (一部抜粋)
父は選ばれて攻撃隊長となり、隊員十一名、年歯僅か二十才に足らぬ若桜と共に決戦の先駆となる。死せずとも戦に勝つ術あらんと考ふるは常人の浅はかなる思慮にて、必ず死すと定まりて、それにて全軍敵に総体当たりを行ひ、尚且つ、現戦局の勝敗は神のみぞ知り給ふ。真に国難といふべきなり。
父は悠久の大義に生きるなり。
一、寂しがりやの子に成るべからず母あるにあらずや、父も又幼少にして父母を病に亡くしたれど決して明るさを失はずに成長したり。まして戦に出て壮烈に死すと聞かば日の本の子は喜ぶべきものなり。父恋しと思はば、空を視よ、大空に浮ぶ白雲にのりて父は常に微笑で迎ふ。
二、素直に育て、戦勝っても国難は去るにあらず、世界に平和がおとづれて万民太平の幸をうけるまで懸命の勉強をすることが大切なり。二人仲良く母と共に父の祖先を祭りて明るく暮らすは父に対して最大の孝養なり。
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葉桜隊の零戦が襲った空母フランクリン
空母フランクリンから撮影(下)
米兵の恐怖は、限界を超えた
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Kamikaze Attacks
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「正しい日本の歴史」 (目次)
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