特攻、そして硫黄島 ~その2~
↑ 応援クリック お願いします!
n
硫黄島の死闘が日本を救った
予想外の戦死傷者の急増に、アメリカ国民に厭戦気分が広がり、一時、日本との講和を考えたほどの恐怖を与えたのが、硫黄島の闘いだった。 硫黄島での日本軍との戦闘は、米軍の心胆を極限まで寒からしめたのでした。
日本軍が占領していった島々を次々と陥落させ日本本土に迫っていたアメリカ艦隊は、日本本土を爆撃するB29の護衛戦闘機のための飛行場とB29の不時着用の飛行場を硫黄島に作るべく、サイパンを落としたのち、硫黄島を目指しました。
東京から南へ1,200キロ離れた激戦地は、山手線の内側の1/3ほどの面積しかない絶海の孤島。 地上には荒野が広がり、周りには泳ぎ着けそうな島もなかった。
陸軍は、栗林中将率いる13,580名、士官の多くは学徒出陣組であり素人同然、兵の多くは老齢期に差し掛かっており本来であれば兵士として採用されないはずの人々でした。
海軍は、市丸少将率いる精鋭の陸戦隊7,340名。
硫黄島の総司令官として着任した日本陸軍栗林中将は、アメリカ駐在武官、カナダ駐在武官を歴任し、陸軍では数少ない知米派であり、香港攻略の立役者。豊富な米国情報と柔軟な発想を持ち的確に判断する、日本軍屈指の名将です。 アメリカをよく知る栗林中将は参謀たちの大反対を押し切って、日本軍の定石手段であった水際阻止をアメリカ軍の艦砲射撃で簡単に撃滅されてしまうことを見越して捨て、島の要塞化を決め、不足気味の兵員、輸送船団が次々に撃沈され少ない資材と食糧そして武器弾薬、僅かな雨水に頼るほかなく飲み水すら欠乏するまさに生き地獄の状況下、風呂にも入ることなどできない灼熱の硫黄島で、至る所から硫黄ガスと一酸化炭素が噴出する高い地熱を持つ岩盤を手掘りで深くまで掘り進め、未完成ながら、28,000mに及ぶ堅牢な地下坑道陣地を構築したのです。
残念だったのは、海軍が、遠き本土で作戦を練る (勉強だけができた) 海軍官僚 (今に通じる国家公務員の上級職) の命令下、マリアナ諸島などで失敗を繰り返してきた水際作戦を強硬に主張し譲らず、そちらにも貴重な物資と人員を割かなくてはいけなくなったばかりか、飛行機が飛ばない滑走路の修復にまで人手と物資を割かれ、その分、陣地構築が遅れたばかりか、栗林中将の見立て通り、補給が不可能な孤島での戦いに際して、貴重な戦力である多くの屈強な海軍陸戦隊員たちが米軍の艦砲射撃により水際で無駄死にしてしまったことです。
栗林中将が厳命したのは、「 玉砕禁止 」でした。 それまでの教条化した日本軍の闘い方を完全否定したのです。 どんなに苦しくとも、戦って、戦って、戦い抜けと命じたのです。 補給が完全に途絶え増援部隊もまったく見込めなくなった現状では、とにかく1日でも長く米軍に損害を与え続け、本土爆撃を遅らせることだけが、硫黄島決戦の使命と考えたのです。
栗林中将は、堅牢な地下陣地を構築しての長期間の持久戦・遊撃戦(ゲリラ)を計画・着手し、水際陣地構築および同島の千鳥飛行場確保に固執する海軍の強硬な反対を一部譲歩しながらも抑え、またアメリカ軍爆撃機の空襲にも耐え、アメリカ軍の上陸直前までに全長28kmにわたる坑道および地下陣地を建設しました。 その一方で隷下将兵に対しては陣地撤退・万歳突撃・自決を強く戒め、全将兵に配布した 『敢闘ノ誓』 や 『膽兵ノ戦闘心得』 に代表されるように、あくまで陣地防御やゲリラ戦をもっての長期抵抗を徹底させたのです。
昭和19年12月8日、アメリカ軍航空部隊は硫黄島に800tを超える爆弾を投下、以降72日間にわたりB-24・29による爆撃が毎日行われ、のべ2,700機が5,800tもの爆弾を落とし続けたました。
硫黄島に迫る米軍上陸船艇群
昭和20年2月16日、440隻もの空母及び戦艦を主体とするアメリカ軍艦艇が硫黄島周辺海域を埋め尽くし、戦闘艦及び航空機は3日間にわたり硫黄島に対しノルマンディ上陸作戦を超える第2次世界大戦史上最大となる猛烈な上陸準備砲爆撃を行い、同月19日9時、海兵隊第一波がLVTや上陸用舟艇をもって上陸を開始、
東西8㎞、南北4㎞の小島でしかない硫黄島に対し、艦砲射撃4万発と爆撃機による爆撃により島は形を変え、一番高いすり鉢山は1/3が削られるほどであった。 アメリカ軍の幕僚たちは徹底した艦砲射撃と爆撃で、日本軍のほとんどを殲滅したものと確信し、「 敵の戦死体を数えるのと幸運にも生き残った敵兵を捕虜として収容する、その程度しか仕事が残っていないでしょう 」 「 24時間あれば、制圧は完了するのでは 」と楽観視していました。
アメリカ軍は、上陸部隊六万、待機部隊11万を含む支援部隊20万もの大部隊を送り込み、補給物資も豊富にあり、戦力差は一目同然。 アメリカ軍は、5日間もあれば完全制圧ができると踏んでいた。
硫黄島に上陸したアメリカ海兵隊
簡単に上陸するも、地獄が待っていた
しかし、ここからアメリカ軍の地獄が始まります。
完全制圧までは5日間、最短で24時間で終了するはずの硫黄島の戦闘は1ヶ月以上にも及び、日本の戦死者20,129名に対し、アメリカ軍は戦死6,821名、戦傷21,865名、計28,686名と日本軍の被害よりアメリカ軍の被害の方が大きかった唯一の戦いとなったのです。
何よりも、栗林中将の采配の凄さはアメリカ人を震撼させ、日本兵の死ぬ覚悟を持った必死の攻撃の恐ろしさは、アメリカ軍最強の海兵隊員ですら、あまりの恐怖から精神に異常をきたし搬出される兵士が続出するほどであり、日本軍に対する恐怖心は彼らの心の奥底にまで焼き付いてしまったのです。
数で劣り物資わずかな日本兵は、私たちではとても飲むことなどできない硫黄交じりの僅かな泥水をすすり、40度を超える硫黄ガス交じりの灼熱地獄の洞窟にこもって米軍の砲爆撃に耐え、愛する故郷 「日本を守る」 ため、玉砕戦法は命令で厳禁されていたため簡単に死ぬことが許されず、しかし死ぬことを前提とした、常人では考えただけでも自殺を考えたくなるような「地獄ようなの環境下」に身を置き続け、まさしく死に物狂いの戦いを展開したのです。
この極限を超えた日本軍への恐怖心は、次第に、軍人として硫黄島の日本兵に対しての畏怖と尊敬に、栗林中将に対する尊敬の念に、そしてアメリカ人の日本人への考え方の大きな変化へとなっていきました。
戦後、アメリカは日本を植民地とせず、味方に引き入れるべく対応をするように変わったのは、実は、この『 硫黄島の戦い 』と『 特攻 』という2つの、死ぬことを前提とした、まさに死にもの狂いの闘いがあったからなのです。
「 日本とは闘ってはいけない、日本軍は味方にすべきである 」
この2つの戦闘から、彼らが導き出した答えである。
西竹一陸軍大佐 (男爵) 昭和7年8月、ロスアンゼルス・オリンピックの最大の華であった馬術大障害飛越競技で金メダルを獲得し、世界から称賛された西も硫黄島の戦車隊長として奮戦、祖国の礎となった。 劣悪な環境にあった硫黄島においても、愛用の鞭を手にエルメス製の乗馬長靴で歩き回っていたダンディズムは今に語り継がれている。
「 栗林の地上配備は、第一次世界大戦にフランスで見たいずれの配備より遥かに優れ、第二次世界大戦のドイツの配備をも凌いでいた 」
硫黄島での米軍海兵隊の指揮官 ホーランド・M・スミス中将
n
x
x
c
c
おすすめの書籍
栗林忠道 拓殖久慶 PHP文庫
c
c
お奨めの動画
【硫黄島】忘れがたき壮絶な戦地/英霊に感謝と鎮魂【HD版】 (9分)
http://www.youtube.com/watch?v=2wK8fxMNh_E&feature=c4-overview-vl&list=PL3FCE7E0D0A0ECE98
s
m
m
m
s
s
s
「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9
m
m
s