有色人種、500年の悲劇⑦ 太平洋侵略の拠点ハワイ
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アメリカ50番目の州、ハワイ
1898年2月15日、ハバナ湾でアメリカ海軍の戦艦メイン号(USS Maine, ACR-1)が爆発、沈没した。当時の米国のメディアは、大手新聞社を筆頭にスペインによる攻撃であると主張。「Remember the Maine, to Hell with Spain!(メインを忘れるな、くたばれスペイン!)」という好戦的で感情的なスローガンを伴ったこの報道は、米国民を激高させ、アメリカ軍のスペイン領キューバ侵攻により米西戦争が始まった。
この戦争は、アメリカにとって、落ち目ではあったが世界の海を支配し、アメリカが狙う太平洋上にいくつもの植民地を持つスペインを押さえ、極東における覇権(はけん)を握る一大契機となりました。
アメリカ極東艦隊は、フィリピンのマニラ湾で世界の海を支配していたスペイン極東艦隊を撃破、フィリピン独立勢力をだまし、駒として使い捨てたうえでフィリピンを植民地に編入、アジアの橋頭保(きょうとうほ)を確保。
勢いに乗って太平洋の島々、グアム、サモア群島、ハワイ王国を奪取、太平洋上に極東進出の多くの拠点を確保した。
そのフィリピンをめぐるスペインとの戦争に於いて、一大軍事拠点となったのがハワイ。
ハワイは、白人キリスト教国家となってしまったアメリカにとって、「 西方支配 」( 人口の多いシナの支配、その手前に立ちふさがる日本支配 )の重要拠点となったのです。
ハワイ侵略の歴史
1778年、イギリス海軍所属のキャプテンクックが白人としてはじめてハワイ島に上陸。 白人世界にハワイ諸島の存在を知らせました。
1804年、ハワイ島北部の族長に過ぎなかったカメハメハは、白人(アメリカ人)と組むことで木の長ヤリしかなかったハワイで、600挺のマスケット銃、14門の大砲、40門の旋回砲、6門の小型迫撃砲を保有するに至った。
1810年、カメハメハは、白人から与えられた武器をもってハワイ諸島を初めて統一。 ハワイ王国を建国、初代国王となった。 アメリカの策略に、まんまとはまったのである。
1820年、カメハメハ大王に優遇され、伝道 (布教活動) を隠れみのに、侵略の先兵として移住してきたアメリカ人宣教師を先頭に、プランテーション (植民地農場・奴隷農場) のための「 イエス・キリストの名のもとに、計略と暴力による土地の収奪 」が 開始された。
2,000人の白人たちは、狡猾な計略と軍事力を背景に暴力でハワイ人の土地を強奪し、サトウキビを持ち込み、奴隷農場で栽培を開始した。 その後、パイナップルの栽培も開始しました。
その後、イギリスやフランスなどが領有を宣言し、ハワイをめぐる西欧列強の抗争が激しくなりましたが、決着がつくことはありませんでした。
また、白人が持ち込んだ梅毒や疱瘡(ほうそう)などの疫病に対する免疫を持っていなかったハワイ人は、50万人から5万人にまで激減。
その対応策として、1850年には中国からの組織的な移民が始まり、日本も1868年(明治元年)、密航という形での移民が始まった。 日本人の多くは、日本の発展のために自ら『特権身分』を捨てた武士たちで、新たな職を求めてハワイに移住したのです。
その後、日本からの移民は急速に増え、1881年、正式に移民協定が結ばれた。 この時、西欧諸国、とくにアメリカの政治的経済的侵略に危機感を抱いていたカラカウア王は来日し、ひそかにカイウラニ王女と山階宮(後の東伏見宮依仁親王)との結婚によるハワイ王朝と天皇家との関係強化を申し出たのですが、アメリカとの関係悪化を懸念する日本政府は断らざるを得ませんでした。
日本には、まだ力がなかったのです。
1885年、明治政府による官制移民が開始。
1891年、リリウオカウラ二女王が即位。
1893年、リリウオカラニ女王が米国との不平等条約を撤廃する動きをみせると、これに強く反発したアメリカ人農場主らがアメリカ海兵隊160人の支援を得てクーデターを起こし、多くのハワイ人を、命乞いをする婦女子や幼子に至るまで平然と虐殺、王政を打倒。 宣教師とその息子たちを中心とするアメリカ人(白人)による「臨時政府」を樹立。 女王はイオラニ宮殿に軟禁されてしまいました。
(※ この背景には、2万人を数える日系人により、ハワイが日本の領土になることを恐れたアメリカの焦りがあったといわれています )
この時、日本は、邦人保護を理由に東郷平八郎率いる軍艦「浪速」「金剛」をハワイに派遣し、ホノルル軍港に停泊させてアメリカ人のクーデター勢力を威嚇(いかく)。
女王を支持する先住民らは涙を流して歓喜したといわれています。
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また、ハワイ在留日本人も女王支持派に同情的で、武士の魂である刀をもってクーデター勢力に戦いを挑み多くが殺されました。 銃火器を持つことが許されていたのは、白人だけだったのです。 負けることが分かっていながらも、かつての日本人は、『正義』のために命をかけて戦ったのです。
「義を見てせざるは勇無きなり」
戦前の、日本人の心です。
世界的に有名なハワイの歌【アロハ・オエ】は、ハワイ人を助けるため、日本人が命をかけて戦ってくれた勇しい姿と追い詰められ虐殺されていく悲しみを歌ったものですが、ハワイがアメリカ人(白人)に強奪されたのち、歌詞が書き換えられ悲恋の歌に上書きされたため、日本人ですら、この歌の真実を知っている者はいません。
臨時政府はアメリカに併合を求めましたが、就任直後のクリーブランド大統領は、1890年の 「フロンティア消滅宣言」 を受けて海外進出に消極的な政策を採っており、また日本海軍の動きをみて併合を渋り、結局、彼の大統領の任期中はハワイを併合しませんでした。
1894年7月4日、アメリカによる併合に時間が掛かると判断した臨時政府は、新憲法を発布しハワイ共和国を宣言。 大統領はサンフォード・ドール。 そのファミリーは、王領の島ラナイ島を、軍事力を背景に強引な手段をもって手に入れ、プランテーションを開始。 今でも「Dole」ブランドのジュースや果物を世界に販売しています。 皆さんも、スーパーやデパートで見たことがあると思います。
1895年1月16日、ハワイ人の王政派が武装蜂起したが短期間で鎮圧、多くのハワイ人が虐殺されてしまいました。この武装蜂起を支援したとしてリリウオカラニ女王を逮捕、幽閉。 1895年1月22日、武装蜂起し捕まった200人のハワイ人の命と引き換えに、リリウオカラニ女王は、廃位 (ハワイ王国滅亡) させられたのです。
ハワイがアメリカ人(白人)に、収奪された瞬間でした。
1895年7月、ハワイ共和国の臨時政府は 「建国一周年」 を祝う21発の祝砲を、ハワイに係留中の各国の軍艦に対し要請。 東郷平八郎も2艘の軍艦をハワイに係留していましたが、「祝砲を打つこととは認められず」として拒否。 ホノルル軍港の各国軍艦も日本に倣(なら)い、「一周年は、ハワイ王朝の喪に服するような静寂の一日に終わった」 と世界の新聞各紙は伝え、アメリカ合衆国は大いに面目をつぶされた。
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アメリカの謀略にはまり、国を軍事力で強奪されてしまったハワイ人の心を慮(おもんぱか)っての東郷平八郎の判断であったのです。 今の日米間の工業力の格差よりも何十倍も開いていた当時の情勢下で、アメリカの要請を 「武士道」 に基づく判断で堂々と拒否したのです。 戦前の日本人の 「正義の心」 を、ここに見ることが出来ます。
しかし、この時、海軍次官であった(のちのアメリカ大統領となる) セオドア・ルーズベルト は日本人のすごさを知り、将来、太平洋とアジアの覇権をめぐって 「日本との戦争」 になることを悟ったと、いわれています。
「 我々はハワイ諸島を明日にでも併合すべきだ。 私の信念では、日本が英国に発注した戦艦2隻が英国を離れる前に、我々はともかくもハワイのそこら中に星条旗を掲げ、細々とした問題はその後に片づければいい。 そしてニカラグア運河(のちのパナマ運河)を早急に建設し、12隻の戦艦を作って半分は太平洋に配置すべきだ。 私は日本の脅威を現実のものとして感じている 」
彼の嫌日感を裏付けるように、セオドア・ルーズベルトが大統領として調停に乗り出した日露戦争の講和条約締結の際、日本は国力を使い果たし戦争遂行能力が残り少なくなっていましたが、
実は、ロシアも、明石元次郎陸軍大佐(※最終階級:大将)によるロシア革命支援の活躍により、ロシア国内が革命前夜の不安定な状態となり武力蜂起が頻発、厭戦(えんせん)気分が蔓延(まんえん)し、戦力が枯渇(こかつ)、戦争継続が不可能な状態にまでなっていたのです。
にもかかわらず、ルーズベルト大統領は、日本が強国となることを阻止すべく、日本がロシアから一銭も賠償金を取れない非常に不利益な条件で講和を結ばせた。・・・のかも知れません。
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しかし日本の歴史教科書では、「 親日家のルーズベルト大統領の調停によってロシアと講和条約が結ばれた 」「 日本(だけ)に継戦能力が無くなったので、助けられた 」などとなっています。
そして、この日本憎し考え方は、支那(中国)、特に、日本の努力により豊かで平和な国となった満州人(女真族)が治める満州国を手中に収めるべく、日本を叩き潰すための日米開戦を強力に画策した、甥(おい)のフランクリン・ルーズベルト大統領に引き継がれていきました。
そのフランクリン・ルーズベルトを、日本では、『 親日的な平和愛好者 』と学校で教え、マスコミがたれ流し、私たちはその通りに尊敬しているのです。
本当は、日本人が大嫌で、日本人をアメリカから徹底的に排斥すべく「 排日法 」を強化しただけでなく「 日本人を4つの島に閉じ込め全滅させろ 」とのたまわり続けて死んだ、大の『 嫌日家 』であっただけでなく、アメリカ人を戦争へと駆り立てた超の付くほど『 好戦的 』な性格を持つ、策略家であったにもかかわらず・・・
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1898年、「 マニフェスト・デスティニー 」を達成すべく、アメリカの西方に広がる太平洋の先にある、(「人口が多いからきっと大きな商圏になるだろう」 という浅はかな考えに基づき) シナへの侵略を決めたアメリカは、その最大の障害となるであろう日本との戦いに備え「 オレンジ・プラン 」の策定を開始、ハワイの地政学的重要性を認識し、ハワイ共和国を併合、ハワイ準州(米自治領)としました。
アメリカの大統領は、前任者とは対照的に帝国主義政策を推し進めたウィリアム・マッキンリー。
以後、ハワイはアメリカの太平洋支配の拠点となり、オアフ島のパールハーバー(真珠湾)には巨大海軍基地を建設、戦艦並みの大砲までをも備え要塞化(ようさいか)され、現在でもアメリカ海軍太平洋艦隊の基地となっています。
アメリカにとってハワイは、太平洋侵略の最重要拠点であり、リリウオカラニ女王を計略をもって翻弄(ほんろう)し、だまし、脅し、最後は軍事力を背景に力ずくで奪い取った、太平洋侵略の要だったのです。
「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9