有色人種、500年の悲劇② アメリカ合衆国
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「 インディアンが約束を破ったことは一度もなかったし、白人が約束を守ったことも一度もなかった 」
バッファロー・ビル (白人)
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北アメリカ大陸では
1620年、イギリス本国の宗教弾圧から逃れるために、メイフラワー号に乗った(キリスト教)プロテスタントの一団が北米大陸のプリマスに初めて、上陸しました。
彼らは東海岸の厳しい環境の中で飢えと寒さに苦しみながらも、「2万5000年以上も前から北アメリカ大陸に住み、自然と共に、伝統を守りながら平和に暮らしていた、『インディアン』と白人が呼ぶようになった黄色人種(私たち日本人と同じDNAを持つモンゴロイド系)の人々」の温かい支援に助けられながら、入植の第一歩を踏み出したのです。
白人によってインディアンと名付けられた人々は、次々と来る入植者に、アメリカでの栽培に適した食物であるジャガイモやトウモロコシの栽培方法を教え、当面の食料として分け与えたばかりかタバコの作り方までも教えてくれるなど、アメリカで生活ができるように様々な面倒を見てくれ与えてくれました。彼らは、人を疑うことを知らなかったのです。
そればかりか、インディアンには「誰かが所有する」という意識は無く、「すべてのものは、みんなのものである」と考えて生活をしてきたため、白人に要求されたものは、何でも快く「みんなのもの」として白人に分け与えました。この考え方は、強奪を目的として生きてきた白人に、最大の、つけ込むスキを与えてしまったのです。
イギリス政府は、アメリカを流刑地として選び、本国に居ることができなくなった人間や、犯罪者、荒くれどもを入植させていったのです。
それから150年間、イギリスから犯罪者や食いつめた者、そして本国には容れない人間たちが次々と入植し、当然のようにインディアンの土地を奪い、だまし取り、略奪し、追い立て、凌辱し(※入植者のほとんどは男だったため、女とみれば構わず強姦した)、殺害を繰り返し、白人が持ち込んだ疫病で数えきれないインディアンを殺し、挙げ句の果てには大虐殺までをも繰り広げ、インディアンを追い立て白人の土地を拡大、第1州のバージニア州から13番目のジョージア州(1773年)まで13州が成立しました。
アメリカは犯罪者の流刑地であり、入植者には善人が少なかったことと、「白人ではない人種は、すべて人間ではなく獣である」「奪い取った者が勝ちなのである」と心の底から信じ切っている白人独自の思想とキリスト教観から、まったく罪悪感なしに、先住民の人々を虐待・虐殺して土地を奪っていったのです。
それだけではなく、白人にとって「人間ではない有色人種」は獣(けだもの)と同一であり、インディアンが愛してきたバッファローともどもスポーツ・ハンティングの的として、ハンティングされ駆逐されていったのです。
アメリカ合衆国成立前の東海岸では、ジョージ・ワシントン(※初代アメリカ合衆国大統領)が、インディアン民族の絶滅政策を推し進めました。ワシントンの手法は焦土作戦だったのです。ワシントンの軍隊は、イロコイ連邦やニューイングランド全域のインディアンを「根絶やしにせよ」とのワシントンの命令を受けていました。
アメリカ独立戦争以降、豊かでタダ同然の土地を求め、白人入植者が『マニフェスト・デスティニー』(明白なる使命)を唱え、西進するようになると、当然そこに住む数千万人とも5000万人とも1億人を超えていたともいわれた、数千の部族に分かれて自由の大地に住んでいたインディアンたち(北アメリカ大陸)は邪魔者となり、これを排除しようとする合衆国政府によるインディアンの撲滅戦争と化しました。
インディアンは住む場所を追い立てられ、奴隷としてプランテーションで酷使され、白人が持ち込んだ疫病により次々と斃(たお)れ、女は子供までもが強姦・輪姦され、逆らう者は八つ裂きにされ吊るされ虐殺され、連邦政府が信託保留する荒れ果てた土地「保留地(Reservation)」に押し込められることを強要され、移住に同意しない多くの部族は土地収奪の障害物として、謀略(ぼうりゃく)をめぐらされ、老若男女を問わず赤ちゃんに至るまでの殺戮により絶滅させられ、あるいは白人のレクレーションとしてバッファローと共にスポーツ・ハンティングのターゲットとして、気の向くままに射殺されていったのです。インディアンは、それでも白人との平和共存を願っていたのですが、それがかなわぬ夢とはっきりと確信すると、自分たちの生存をかけ激しく抵抗するようになっていきました。
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(マニフェスト・デスティニー)
m女神の右手には書物と電信線が抱えられており、アメリカ合衆国が西部を「文明化」という名の下に征服しようとする様子を象徴している。右側には、侵略のシンボルともいえる大陸横断鉄道が見える。左隅には、白人入植者に追い立てられるインディアンが描かれている。
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1776年の合衆国独立宣言には、「すべての人間は平等につくられている。創造主によって、生存、自由そして幸福の追求を含む侵すべからざる権利を与えられている」と謳われていますが、すべて白人自身のためであり、インディアンおよび黒人(奴隷)が、この「すべての人」に含まれないのは明らかでした。
インディアンが愛した自由の大地の強奪行為は激しさを増し、1803年には、ジェファーソン大統領が「我々が手を振り降ろしさえすれば粉砕されてしまうことを、インディアンは理解すべきだ」と述べたように、合衆国の国力が強まるにつれ、より強力な武器を使った「暴力」による抑圧が公然と行われるようになっていったのです。
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こんな母子まで、情け容赦なく次々と殺していった
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大方のインディアンの粛清(大虐殺)が完了した、1830年、ジャクソン大統領は、「野蛮人の一掃のため」と称して強制移住法を制定し、すべてのインディアンをミシシッピ川以西のインディアン=テリトリー(居留区)へ移住させました。最後まで、頑として移住を拒否し続けたチェロキー族も、ついに1838年に連邦軍によってジョージア州から追いたてられてしまいました。1万2,000人のチェロキー族の一行は、極寒の冬空の下、5ヶ月をかけてオクラホマへの長い行程を強いられ、寒さ、飢え、病い、暴行によって8,000人もの命が失われたという「死と絶望の旅路」を、強制されたのです。 強制移住の結果、ミシシッピ以東の土地はほぼ完全に白人のものとなりました。
そして、連邦政府は移住させたインディアンに対して、「文明化」という名の、インディアンが持つ文化、伝統、歴史、生活様式の破壊を、推進していったのです。
19世紀半ばの時点で、ミシシッピ以西には、強制移住させられた部族を別にすると、判明しているだけでも、30万人近いインディアンが残存していました。
※白人にとって、人間ではないインディアンの人口には全く関心が無かったため、正確な人口は不明。また、何千万人を虐殺したのかも、まったく判っていない。1億人前後がアメリカとカナダで行われたホロコーストによって虐殺されたとしている文献もある。
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Native American Genocide
The American Indian Holocaust, known as the “500 year war” and the “World’s Longest Holocaust In The History Of Mankind And Loss Of Human Lives.”
Genocide and Denying It: Why We Are Not Taught that the Natives of the United States and Canada were Exterminated
Death Toll: 95,000,000 to 114,000,000
American Holocaust: D. Stannard (Oxford Press, 1992) – “over 100 million killed” “[Christopher] Columbus personally murdered half a million Natives”
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そのなかには、スー・シャイアン、コマンチ、ナヴァホ、アパッチなどの狩猟生活をおくる部族がおり、一九19世紀後半、特に1860年代から80年代にかけての西部は、こうしたインディアンと侵略者である白人との激烈な戦いの場となったのです。
1866年のフェッターマン大尉以下81名のせん滅や、1876年のスー族・シャイアン族連合軍によるカスター将軍大隊のせん滅など、インディアン側は輝かしい戦果をいくつも挙げ、スー族のシッティング・ブルやアパッチ族のジェロニモの名は白人を震え上がらせました。
しかし、白人側の軍事的ずる賢さ・物量的優位はやはり動かしがたかったのです。強靭なインディアン戦士とは正面切って戦わず、迂回して戦士が居なくなった集落を襲い、白旗を持った少女を撃ち殺し、女は幼子に至るまで強姦・輪姦を繰り返し妊婦の腹を割いた。頭皮を剥ぐついでに女たちの指を切り落として指輪を奪った。女や子供からお年寄りまでの全員を大虐殺の上、集落のすべてを燃やし尽くすという卑怯極まりない戦い方を繰り返しました。
(※この戦法は、大東亜戦争時、国際法で禁じられていたにもかかわらず日本に対して大々的に行われた。本土無差別爆撃や原水爆の投下である。しかし日本の教育界は「アメリカによる正義の戦い」と称するのです。その後、ベトナム戦争でもアメリカの援軍に回った(飢えた野獣のごとき)韓国軍が主体となって、この悪魔のごとき卑怯で修羅な蛮行を積極的かつ大規模に行った)
ジェロニモは降伏し、シッティング・ブルも保留地に閉じ込められた末に、1890年12月15日、ついに逮捕されてしまいました。
「わたしは行かない。さあ、みんな立ち上がれ。決起するのだ!」
こう叫んだ瞬間、ブルは、射殺されたのです。
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アメリカ合衆国やカナダの本来の国民である『インディアン』
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先住民の女性たちとティーピー(テント型の住居)
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インディアン、最後の大虐殺
この2週間後、第7騎兵隊は白人の不埒に武器を持って抵抗し、力尽きて降参し、無抵抗となったスー族300人以上を虐殺。この虐殺を白人(アメリカ大陸を侵略した人)たちは「戦争」と名付けた。戦争であれば、白人が勝手に作った法の名の元に、堂々と土地を略奪できるからである。
アメリカ軍は、降伏したインディアンから武器を没収した後に虐殺を始めたのです。幼子や、赤ちゃんを抱いて必死に逃げる若い母子までをも無差別に射殺した。
この虐殺を白人側は「ウーンデッド・ニー戦争」と呼び、虐殺を実行した第7騎兵隊には議会勲章まで授与されている。しかし、インディアン側ではこれを「ビッグ・フット一行に対する虐殺」と呼んでいて、インディアン戦争の象徴にもなっています。
「ついに米軍はインディアンに対する無差別虐殺を開始した。無抵抗の病人のビッグ・フットは、間もなく、ティーピー(インディアンのテント型住居)に押し入った兵士に頭に弾を撃ち込まれて殺された」
軍は丘の上に設置した速射ホッチキス砲で無差別砲撃を加えた。さらに新鋭のスプリングフィールド銃で幼子を抱いて逃げる女性も、馬も犬も子どもも狙い撃ちし、皆殺しにした。100人弱の戦士たちは、没収された銃を手にするまでは素手で虐殺者たちと戦った。イエローバードは銃をとってティーピーに立てこもり、白人を狙い撃ちした。彼は、ティーピーに火が放たれ、全身に銃弾を浴びるまで勇敢に戦った。
銃・砲弾の降り注ぐ中、女・子供たちはそれでも3キロばかり逃げたが、負傷のためにそこで力尽き、倒れていった。部族員のほとんどは武器を持たず、それを四方から取り囲んだアメリカ軍兵士達が銃撃した。
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「ホッチキス砲は一分間で50発の弾を吐き、2ポンド分の弾丸の雨を降らせた。命あるものなら何でも手当たりしだいになぎ倒した。この(子供に対する3キロ余りの)追跡行は、虐殺以外何ものでもない。幼子を抱いて逃げ惑う者まで撃ち倒された。動くものがなくなってようやく銃声が止んだ」と、兵士の一人は回想している。
また、「これまでの人生で、このときほどスプリングフィールド銃がよく出来ていると思ったことはない」と、ある白人士官が言葉を残している。乳飲み子もたくさんいたが、米兵はこれも無差別に虐殺した。「この幼子達が身体中に弾を受けてばらばらになって、穴の中に裸で投げ込まれるのを見たのでは、どんなに石のように冷たい心を持った人間でも、心を動かさないではいられなかった」と、埋葬隊の1人は言葉を残している。
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(ウーンデッド・ニーの谷間)
スー族や馬の死体が放置されている
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1891年1月1日、埋葬隊が派遣された。銃座が置かれた丘の上に、ひとつだけ穴が掘られた。彼らの遺体は一人あたり2ドルの手間賃で、民間人アルバイトによって無造作にこのひとつだけ開けられた土の中へ投げ込まれた。 (『ウンデット・ニーの虐殺』 ウィキペディアより引用)
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マンカト・スネリング砦でのスー族の一斉絞首刑
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リンカーンは、北アメリカ大陸の土地と資源の強奪を目的としたインディアン虐殺の総仕上げとして、スー族の土地をすべて取り上げただけでなく、主だった族長38人を戦犯として処刑した。一度に38人を吊るしたのは未だに破られない世界記録である。
なお、生き残ったスー族はパイク島の強制収容所に閉じ込め、その多くを餓死させた。
この虐殺劇の終焉によってインディアンの武力抵抗は完全に鎮圧され、アメリカ合衆国は、名実ともに白人国家となったのです。
ウーンデッド・ニーの大虐殺は、これまで3世紀にも渡って繰り広げられたインディアン戦争の終わりを象徴する事件であった。
ちょうど同じころ、カナダでも、イギリス人による、インディアンからの土地の強奪が完了した。
カナダの先、アラスカは、広大なシベリアの有色人種への侵略を終えたロシアが伸長し収奪した。(後にアメリカ合衆国に売却)
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アメリカによるプロパガンダの歴史
私が子供のころ、それらの戦いは西部劇の映画でたびたび上映され、白人の幌馬車を襲うインディアンと対決する騎兵隊の活躍に、わくわくしたものです。
しかし、「正義の騎兵隊 vs 野蛮で残忍なインディアン」という図式は、実は、アメリカ人が作った白人の身勝手な「白人のみが神に作られた人間である」とした宗教観に基づく虚構だったのです。インディアンにとっては、侵略者から自分たちの大地、愛する家族、そして生活を死守するための戦いだったのであり、実際に野蛮で残虐だったのは、白人の側だったのです。
1890年の合衆国国勢調査は、フロンティアの消滅を高らかにうたいました。これは、北アメリカ大陸における先住民・インディアンよりの略奪が、完了したことを意味しました。
合衆国の発展と繁栄は、まさにインディアンの屍の上に、略奪をもって築かれたものでしたが、白人たちは辛うじて生き延びたインディアンに対しては、生存の条件として、インディアンであることをやめるよう要求したのです。「インディアンの文化的抹殺こそが、文明の勝利」だと、確信されていたのです。
すべてのインディアンがその風習を持ったまま合衆国市民として認められたのは、ようやく1924年のことです。しかし、荒涼とした狭いインディアン居留地に押し込められ、差別に苦しみ、今なお収入・学歴・生活環境などの指標では、インディアンは様々な民族集団の中で最下位に沈んでいます。私が学校で習い、西部劇を鑑賞し、テレビで見て憧れた、白人の「フロンティア・スピリット」と、白人に襲いかかる野蛮で恐ろしいインディアンの関係は、実は、真っ逆さまだったのです。
アメリカの歴史のどこに「博愛と平等と正義」の精神があるのでしょうか?
教育とマスコミによる「繰り返し行われている、継続した教育(洗脳)による思い込み」の怖さを、感じずにはいられません。
私たちが自覚しなくてはいけないのは、とくに高学歴になるほど、何も考えさせない暗記教育が繰り返され、学校で教わったことやテレビや新聞の言うことが正しいと信じ、自分が知っている知識やマスコミ発表と異なった意見を、排除してしまう危険性です。
お勧めの書籍
侵略の世界史 清水馨八郎 祥伝社黄金文庫
裏切りの世界史清水馨八郎 祥伝社黄金文庫
アメリカ・インディアン悲史 藤永 茂 朝日選書21
お勧めのインターネット情報
ウンデット・ニーの虐殺 ウィキペディア
スペインによるアメリカ大陸の植民地化 ウィキペディア
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「正しい日本の歴史」 (目次)
http://rekisi.amjt.net/?page_id=9