有色人種、500年の悲劇⑥ フィリピン侵略
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親米国家、フィリピンの場合
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1521年、マゼラン率いるスペイン船団が初めてフィリピンに到達しました。マゼランはフィリピンにたどりつくと、鎧(よろい)と槍(やり)、火縄銃、大砲などの武器の威力を背景に部族長たちに対してスペイン王への隷属(れいぞく)とキリスト教への改宗を要求。次々と服従させていったのです。しかしイスラム教の部族長ラプ・ラプはこれを拒絶しました。マゼランは激怒し、1521年4月27日、ラプ・ラプ討伐のためマクタン島へ軍を派遣。ラプ・ラプ軍は甲冑(かっちゅう)で身を固めたスペイン兵の足が無防備なことを見抜くなど、巧みな戦術によってマゼラン軍を破り、ついにマゼラン本人を殺害、リーダーを失ったマゼランの配下たちは退却せざるを得なくなりました。
フェルナン・デ・マガリャンイス (Fernao de Magalhaes)
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1543年にはルイ・ロペス・デ・ビリャロボス率いるスペイン船団がサマール島とレイテ島に到着、この島々にフェリペ皇太子(後のフェリペ2世)にちなみ「Las Islas Filipinas,(フィリピーナス諸島) 」と命名。これが「フィリピン」の国名の由来となりました。
本格的な支配を開始できたのは、徹底した大虐殺(だいぎゃくさつ)と拷問(ごうもん)によりフィリピン人の戦う意欲を喪失(そうしつ)させたフアン・デ・サルセードらによる1570年のマニラ征服と、1571年のマニラ市の設置からでした。フィリピンは貿易の重要な中継地点としてガレオン貿易が盛んに行われ、征服されたフィリピン人は、他の植民地と同じ極悪非道な扱いを受けたうえ、奴隷として、また多くの女性たちは白人の性欲のはけ口として、スペイン人たちの欲望のおもむくままに少女に至るまで時と場所を選ばず強姦されました。
植民地支配されたフィリピン人たちは、ガレオン船の建造や、支配者たちが求める輸出用農産物のプランテーションで強制労働に従事させられ、本来、彼らの食物を作る耕作地が収奪転用され、自分たちの食べ物を作る時間をも奪われ、飢餓に苦しめられることとなったのです。支配者であるスペイン人に対する反抗は幾度となく繰り返されましたが、国を挙げての戦いとすることが出来ず、いずれも規模の小さな局地的なもので、容易に鎮圧されてしまいました。
1898年4月、アメリカ合衆国がスペイン支配下にあったキューバの独立戦争に介入した結果、米西戦争(アメリカとスペインの戦争)が勃発(ぼっぱつ)。アメリカ合衆国はスペインの植民地であったフィリピンの独立に全面的に協力することを条件に、香港に亡命していたエミリオ・アギナルドに協力を要請。アギナルドはこれを受け、5月、アメリカ艦隊と共にフィリピンに帰国し独立運動を再開、6月12日、アギナルドを大統領として独立宣言がなされました。同年8月13日、米軍とともにマニラにあったスペイン総督府を陥落させスペインとの戦闘を終結。アギナルドは、9月15日、ブラカン州マロロスで革命議会を開催しました。
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しかし、米西戦争の勝利で独立を果たしたのもつかの間、同年12月10日、米西はパリ条約を締結。スペインはアメリカにフィリピンの領有権を2000万ドルで譲渡。フィリピンの統治権をアメリカ合衆国に渡たしたのです。
それでも、1899年1月21日、フィリピン第一共和国がフィリピン人によって建国されました。
フィリピン共和国の独立を認めないアメリカ合衆国による植民地化に、フィリピン人は猛烈に抵抗し、8月、米比戦争が勃発しました。アメリカ軍は12万6000人もの兵力を動員し、フィリピン侵略の為に残虐の限りを尽くし、反抗するフィリピン人62万人を虐殺しました。この時、フィリピン駐留アメリカ軍司令官となり、フィリピンの植民地総監となったのが、アーサー・マッカーサー・ジュニア(戦後、日本を支配したダグラス・マッカサー元帥の父)です。彼が出した命令は、「逆らう島民はすべてゲリラとみなす。殺そうが拷問しようが構わない。彼らをかばえば家族も同罪に処す」だったのです。
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米比(アメリカ・フィリピン)戦争時のニューヨークジャーナルの風刺画
フィリピン人を銃殺しようとするアメリカ兵の背後には「10歳以上は全員殺せ」と書かれている。
1901年9月28日、サマール島で「バランギガの虐殺」が発生。小さな村でパトロール中の米軍2個小隊が待ち伏せされ、半数の38人が殺されたのです。アーサー・マッカーサーは報復にサマール島とレイテ島の島民の皆殺しを命じ、少なくとも10万人は虐殺されたと推定されています。またマッカーサーはアギナルド(大統領)軍兵士の出身者が多いマニラ南部のバタンガスの掃討(そうとう)を命じ、家も畑も家畜も焼き払い、結果、餓死(がし)する者多数と報告されています。レイテ島皆殺しから3カ月後、住民の一団は、アメリカ軍を脱走しフィリピン軍に加わってくれた黒人兵士ファーゲンの首を持って、「裏切り者を処罰した」と米軍陣地に出頭してきました。
同年、アギナルドは米軍に逮捕され、第一共和国は崩壊し、フィリピンは旧スペイン植民地のグアム、プエルトルコと共にアメリカ合衆国の主権の下に置かれることとなったのです。
しかし、その後もモロ族は、祖国を取り返すため、アメリカ軍との戦争を10年以上にわたり続けたのです。この戦いにより虐殺されたフィリピン人は62万人、モロ族の戦いは悲惨極まりない終焉(しゅうえん)を迎え、フィリピンはアメリカ合衆国の植民地として、以降、アジア侵略の橋頭保となりました。
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精神科医ジュディス・ハーマンは、
「苛(いじ)めは反発を呼ぶが、徹底した残忍な殺戮(さつりく)や拷問の恐怖は、逆に従順さを生む」と書いている。フィリピンはアメリカのアジア進出の橋頭保になり、住民はいまだにアメリカに絶対服従と思慕を持ち続けている。
ジュディス・ルイス・ハーマン(Judith Lewis Herman, 1942年 ~)
アメリカ合衆国の精神科医。現在ハーバード大学医学部精神科臨床準教授
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コルトM1911開発秘話
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フィリピン侵略戦でのモロ族との戦いでは、自分たちの生活を守るため蛮刀を振るって命がけで突進してくる先住民に対し、それまでの38口径のリボルバー拳銃では1発で仕留めることができずアメリカ兵の損傷が激しかった。アメリカ軍はこの戦訓から、拳銃でも1発で相手を殺害できる威力の高い弾丸として、より大型の45口径弾を採用することを考え、これと同時にリボルバーより素早い連射が可能となる自動拳銃を求めた。
この要請に基づいて開発されたのがコルトM1911だ。この弾丸の威力はすさまじく、1発で内臓をぐちゃぐちゃにえぐり取った。
フィリピン人を効率よく虐殺するために開発され、以降、アメリカ軍の正式拳銃としてベトナム戦争まで長く愛用され、現在でも愛用者が多い拳銃である。
「正しい日本の歴史」 (目次)
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