有色人種、500年の悲劇④ アジア侵略史

On 2013年5月1日

 

m

にほんブログ村 歴史ブログへ にほんブログ村

応援クリック お願いします!

 

 

アジアの植民地化

同じ時代、ヨーロッパの西のはずれにあるポルトガルでは、西南の海に発展の活路を見出そうとしていました。

1498年、歴史教科書に出てくるあの有名なバスコ・ダ・ガマは、アフリカの南端・喜望峰を回ってインドの西岸カリカットに到着し、海上ルートによるインド貿易を開拓しました。

ポルトガルの軍勢は、さらに東に進み、1511年マレー半島の南部にあるマラッカ王国を征服、東洋貿易の拠点とすると、1557年には支那(今の中国のある辺り)のマカオを獲得しました。

当時、西欧世界の名もなき小国であったポルトガルは、それまで陸上輸送だったため、イスラム商人やイタリアのベネチア商人に富を独占されていた香辛料を主体とする東洋貿易を、海上輸送によりポルトガルが行うことを可能にし、巨万の富を得て西の一大強国となることができました。(当時、香辛料は大変に貴重で、銀と同じ価値を持っていたのです)

当時、西欧人のあこがれであった香料群島(東南アジア)に、ポルトガルに遅れながらも、スペイン王が援助したポルトガル人マゼランが南米大陸の最南端、南極との間にあるマゼラン海峡を発見、西回りルートで南太平洋を横断し、途中サイパン、テニアン、グアム島に唾をつけ、海賊行為を続けながら、1521年、フィリピンのセブ島に到達しました。当時は、先に唾をつけさえすれば領土として公認されるというのが、植民戦争の了解事項(※ヨーロパに住む白人たちの勝手なルール:今につながる軍事力が強いものが正義)だったのです。

こうして、スペインとポルトガルによる香辛料をめぐる植民地争奪戦が東南アジアで火花を散らしていきました。

ポルトガルの東洋侵略の先端が日本に到着したのは、1543年で、種子島にマカオ関係のポルトガル船が台風にあって漂着し鉄砲を伝え、スペインは、1549年に、フランシスコ・ザビエルがキリスト教の布教を隠れみのとして鹿児島に上陸しました。

日本は、2つの侵略国の先端が重なってしまったのです。

しかし、なぜ日本は侵略されなかったのでしょう?

日本が、ほかのアジアの国々と同じであれば、簡単に植民地にされていたでしょう。

しかし、ヨーロパ人を超えるほどの高い文化・生活様式・文明・民度を持っていた日本人は、ポルトガル人によって伝えられた鉄砲の改良型まで、すぐに大量生産してしまったほどの高い技術を持っていただけでなく、侵略軍を簡単に殲滅(せんめつ)できるだけの武士軍団を保持していたため(当時、世界最強)、侵略者たちは日本を恐れ、ほかのアジア諸国のように侵略されることはなかったのです。

その後、イギリス、フランス、ドイツ、ソ連などの 『白人国家』 がアジアの植民地争奪戦に加わり、東南アジアを含むアジア全域は、白人国家の植民地か租借地となってしまいました。

アジア大陸でも、20世紀初頭には、北からは広大なシベリアを侵略し支配下に治めたロシア (※ ヨーロッパの東のはずれに位置する小国に過ぎなかったモスクワ公国が拡大し軍事大国となる) によりモンゴルと西トルキスタン、東トルキスタン( 現中国ウイグル自治区) が占領され、支那(中国)北側の地域までもが勢力圏内に置かれ、南からは東南アジアを侵略し尽くしたイギリスとフランスにより、支那南側の地域を勢力圏内に置かれてしまいました。

また 「マニフェスト ・デスティニー」 を掲げるアメリカも、巨大な人口を抱える最後のユートピアとして支那の権益拡大(けんえきかくだい)を虎視眈々(こしたんたん)と狙っていたのです。

唯一、有色人種国家で、白人国家の侵略を受けていなかったのは、日本のみだったのです。

(※タイ王国は、イギリスとフランスに領土の一部を割譲し、イギリスに対しては植民地支配と同等の利権も与えていた)

奴隷520世紀初頭のアジア植民地状況地図

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

 

Comments are closed.