有色人種、500年の悲劇 ① アメリカ大陸発見!

On 2013年5月1日

 

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「アメリカ大陸発見!」という、まやかし

 

有色人種画像をクリックすると綺麗に見れます

 

コロンブスの新大陸(アメリカ大陸)発見は、「人類発展のエポックメイキング」「世界史上、前人未踏の大壮挙」「科学の勝利」「明るい話題」として、私たちは学んできました。

この歴史解釈の根源は、舶来品が高級と思う私たちの西欧崇拝に共通するもので、明治以降のお雇い外国人は英・独・仏語圏の人間のみとし、彼ら主体で文明開化が行われたため、今でも西欧人(白人)の視点から作られた歴史が正しいと信じ、学校で教え参考書籍が発行されテレビで放送されている所にあるのです。

歴史事実の解釈は、「誰に、どのように教わったか」で、考え方が作られてしまう典型的な事例です。

 

真実の歴史は、どうだったのでしょう?

 

「1492年、コロンブスはアメリカ大陸に到達しました」が、正しい歴史の表現となります。

 

有色人種2

 

実は、南北アメリカ大陸は、4万年~2万5千年も前から私たち日本人と同じルーツを持つモンゴロイドが移り住んでおり、コロンブスが到達当時、最大推計でおよそ1億1,000万人が豊かな自然と共生し平和に暮らしていました。

コロンブスの新大陸発見とは、白人たちが南北アメリカ大陸を武力と残虐をもって侵略・制圧し、大量の金や銀や水晶をはじめとする様々な財宝を強奪、本来の南北アメリカに住んで居た人々を拷問にかけ虐殺、ハンティングのターゲットにまでして駆逐し白人の領土と化し、本来のアメリカ大陸の住民を奴隷として酷使、また野獣のごとき性欲のままに幼子に至るまで犯し、または奴隷農業(プランテーション)を行い収奪の限りを尽くすことで、緯度が高く寒冷で貧しい大地ゆえに強奪のための争いが絶えなかったヨーロッパ諸国を、豊かな白人国家に仕立て上げる歴史の始まりだったのです。

元々アメリカ大陸に住んでいた、争いを好まず、平和の中で暮らしていたモンゴロイド系の人々(インディオ)に対して、キリストの名の元に宣教師が情報収集の先駆けとなり、虐殺の正当性をキリストの名のもとに白人に与えることで、野蛮な白人たちによる、略奪・強姦・隷属・リンチ・拷問・大虐殺行為を始める号砲が鳴り響いた瞬間だったと言えるのです。

コロンブスが新大陸を発見してからわずか100年の間に、アメリカ大陸に住んでいた「本来のアメリカ人」は、大量虐殺または金採掘等に伴う過酷な労働により死亡し、ある地域では広大な土地を奪い取るために幼い子供たちに至るまで皆殺し殺戮(さつりく)が繰り返され根絶やしにされ、食べ物を奪われ餓死させられ、また免疫を持たない本来のアメリカ大陸の住民たちは、白人が持ち込んだ淋病や疱瘡(ほうそう)などの疫病にかかり多くが死亡、人口が南北アメリカ大陸の合計で、最大で1億人以上も減少したと推計されています。

私たちが知っている『インカ帝国』や『アステカ帝国』の滅亡は、実は、このスペイン人たちによって、金銀財宝を収奪するために行われた幼子にまで及ぶ、蛮行の結末なのです。

僅かに残った本来のアメリカ国民は、北米アメリカでは『インディアン』、中南米では『インディオ』と呼ばれ、痩せ細った土地の狭いエリアに押し込められ、物乞いをしたり民芸品などを売って、細々と生きながらえているのです。

 

インディオ

 

イ‌ンディオ2

 

私たちが最近、アメリカから輸入したこだわりのおしゃれ小物として持つようになった『ネイティブアメリカン』という名の民芸品を細々と売りながら、辺境の地にある不毛の土地(居留区)に暮らしているのが、絶滅を免れ、僅かに残った北米大陸にもともと住んでいた、インディアンの子孫たちなのです。

 

有色人種6

 

また、アンデスの町の街頭で子供をあやしながら手芸品を売ったり物乞いをしている、山高帽をかぶった小柄なインディオの女性を写真などで見たことがありますが、彼女たちが、かろうじて生き残ったインディオの子孫なのです。

 

TS280553カリブ海に浮かぶキューバ共和国

有色人種7ガテマラ中米のグアテマラ共和国

彼らは中央アメリカに生きてきた人種では無い

 

ニューヨークを自信ありげにカッコよく歩いている人々や、カリフォルニアの海岸でサーフィンを楽しんでいる若者、リオのカーニバルで明るく元気に踊っている人たち、ジャマイカでレゲーを楽しんでいる明るい人たち、そしてカストロ政権下のキューバ人さえもが、本来の国民(アメリカ・エリアに住んでいた人たち)ではないのです。

 

インディアスの破壊についての簡潔な報告

 

有色人種10 ラス・カサス神父

 

ラス・カサス神父が著した『インディアスの破壊についての簡潔な報告』(岩波文庫)という本がある。神父の父ペドロがコロンブスの第2回目の航海に参加し、自身は1502年以降インディオスに何度も渡り、コロンブス以降のインディオの社会崩壊を目の当たりにした。
ラス・カサス自身は何よりも平和的な方法によるインディオのキリスト教化を望んでいたのだがインディオの状況は酷くなるばかりであり、1541年に国王カルロス5世に謁見してインディオの社会崩壊はスペイン人の非道な所業によるものであるとの報告書を提出している。『インディアスの破壊についての簡潔な報告』は、その時の報告書をもとに著されたものである。

「インディアスが発見されたのは1492年のことである。その翌年スペイン人キリスト教徒たちが植民に赴いた。…彼らが植民するために最初に侵入したのはエスパニョーラ島(現在のハイチ、ドミニカ共和国のある島)で…非常に豊かな島であった。周囲には無数の大きな島が点在し、その島一帯には、我々も目撃したのであるが、世界のどこを探しても見当たらないほど大勢の土着の人びと、インディオたちがひしめきあって暮らしていた。…1541年までに発見された土地だけについてみても、人びとはまるで巣に群がる蜂のようにひしめきあい、さながら神が人類の大部分をそこに棲まわせたかのようであった。

神はその地方一帯にすむ無数の人びとをことごとく素朴で、悪意のない、また陰ひなたのない人間として創られた。彼らは土地の領主たちに対し、また、現在彼らが仕えているキリスト教徒たちに対しても実に恭順で忠実である。彼らは世界でもっとも謙虚で辛抱強く、また温厚で口数の少ない人たちで、諍いや騒動を起こすこともなく、喧嘩や争いもしない。そればかりか、彼らは怨みや憎しみや復讐心すら抱かない。…」

「…スペイン人たちは、…これらの従順な羊の群に出会うとすぐ、まるで何日も続いた飢えのために猛り狂った獅子のようにその中に突き進んで行った。この40年間の間、また、今もなお、スペイン人たちはかって人が見たことも読んだことも聞いたこともない種々様々な新しい残虐きわまりない手口を用いて、ひたすらインディオたちを斬り刻み、殺害し、苦しめ、拷問し、破滅へと追いやっている。例えば、われわれがはじめてエスパニョール島に上陸した時、島には約300万人のインディオが暮らしていたが、今では僅か200人ぐらいしか生き残っていないのである。…」

有色人種3インディオの処刑(版画)

「インディアスへ渡ったキリスト教徒を名のる人たちがその哀れな人びとをこの世から根絶し、絶滅させるに用いた手口は主に2つあった。ひとつは不正で残酷な血なまぐさい暴虐的な戦争による方法である。いまひとつは、何とかして身の自由を取り戻そうとしたり、苦しい拷問から逃れようとしたりする領主や勇敢な男たちを全員殺害しておいて、生き残った人たちを奴隷にして、かつて人間が、また、獣ですら蒙ったことのないこのうえなく苛酷で恐ろしい耐え難い状態に陥れ、圧迫する方法である。キリスト教徒たちが無数の人びとを殺戮するのに用いたそのほかの様々な手口は、ことごとくこの2つの極悪無慙で暴虐的な方法に集約される。

キリスト教徒たちがそれほど多くの人びとをあやめ、破滅させることになったその原因はただひとつ、ひたすら彼らが黄金を手に入れることを最終目的と考え、できる限り短時日で財を築こうとし、身分不相応な高い地位に就こうとしたことにある。…」

 

中央~南アメリカ大陸、悲劇の始まり

コロンブス一行は、「黄金を収奪する!」ただその一点の為だけに「黄金の国ジパング(日本)」へ、最短航路と信じた「未開拓の西回り航路」で目指し、たまたま到達した中米~南アメリカ大陸で、黄金を強力に探し求め、根こそぎ財宝、財物を収奪するために、そこで平和に暮らす人々を拷問にかけ、あるいは見せしめのため惨殺することで従わせ、性のはけ口として少女までをも強姦し、気分次第で老若男女を問わず殺害(「ハンティング」とよんだ)を繰り返し、刃向かう者は容赦なく拷問にかけ虐殺していったのです。

『大航海時代』とは、私たち日本人が考えているような、冒険に満ちたロマンチックなものではなく、白人による有色人種国家に対する財宝の略奪を目的とした侵略史であり、人類にとっての「大後悔時代」の代名詞だったのです。

 れでは、実際にはどのような歴史だったのか、ウィキペディアに掲載されているコロンブスの項から少し見てみたいと思います。

 

有色人種12キューバに上陸したコロンブス一行

最初に上陸した島でコロンブス一行は、アラワク族インディオ達から歓待を受ける。アラワク族は船から上がったコロンブス達に水や食料を贈り、オウムや綿の玉、槍やその他見たことのないたくさんのものを持ってきた。コロンブス一行はそれをガラスのビーズや鷹の鈴と交換した。だがしかし、コロンブスの興味は、ただ黄金にしかなかった。彼はこう書き残している。

「私がインディアに到着するとすぐに、私が見つけた最初の島で、彼ら原住民(アラワク族インディアン)たちに、私に差し出さなければならないものがこの品々の中にあるのかどうか教え込むために、私は力ずくで原住民の何人かを連行した。

彼らは武器を持たないばかりかそれを知らない。私が彼らに刀を見せたところ、無知な彼らは刃を触って怪我をした。 彼らは鉄を全く持っていない。彼らの槍は草の茎で作られている。彼らはいい身体つきをしており、見栄えもよく均整がとれている。彼らは素晴らしい奴隷になるだろう。50人の部下と共に、私は、彼らすべてを征服し、思うがまま何でもさせることができた。

有色人種⑬キューバ支配を始めたコロンブス一行

原住民たちは所有に関する概念が希薄であり、彼らの持っているものを『欲しい』といえば彼らは決して『いいえ』と言わない。逆に彼らは「みんなのものだよ」と申し出、差し出すのだ。彼らは何を聞いてもオウム返しにするだけだ。彼らには宗教というものがなく、たやすくキリスト教徒になれるだろう。我々の言葉と神を教え込むために、私は原住民を6人ばかり連行した」

コロンブスはこの島で略奪を働き、次に現在のキューバ島を発見。ここを「フアナ島」と名づけたあと、12月6日にはイスパニョーラ島と名付けた島に到達。24日にサンタ・マリア号が座礁してしまう。しかし、その残骸を利用して要塞を作り、アメリカにおけるスペイン初の入植地を作った。この入植地には39名の男が残った。

年が明け、1493年1月16日、スペインへの帰還を命じ、3月15日にパロス港へ帰還した。

帰還したコロンブスを歓迎して宮殿では盛大な式典が開かれた。コロンブスは航海に先んじて、発見地の総督職、世襲提督の地位、発見地から上がる収益の10分の1を貰う契約を交わしていた。この取り決めに従い、コロンブスはインディオから強奪した金銀宝石、真珠などの戦利品の10分の1を手に入れた。また陸地を発見した者には賞金が王夫婦から与えられるとされていた。コロンブスは自分が先に発見したと言い張り、これをせしめている。

国王に調査報告を終え、少しばかりの援助を求めたコロンブスは、次の航海目標としてこう述べている。

「彼ら(スペイン人)が必要とするだけのありったけの黄金… 彼らが欲しがるだけのありったけの奴隷を連れてくるつもりだ。このように、永遠なる我々の神は、一見不可能なことであっても、主の仰せに従う者たちには、勝利を与えるものなのだ」

1493年5月4日、ローマ法王勅書は、アゾレス諸島の西100リーグの分界線を定め、スペインはこれによって、新大陸を探検し植民する独占的な権利を手にした。折からの関心の高まりによって、コロンブスは2回目の航海の資金を難なく作ることができた。

インディオ、大虐殺

1493年の9月に17隻1,500人で出発したコロンブスの2度目の航海はその乗員の中に農民や坑夫を含み、植民目的であった。11月にドミニカ島と名付けた島に到着したが、前回作った植民地に行ってみると基地は原住民であるインディオにより破壊されており、残した人間は全て殺されていた。コロンブスはここを放棄して新しく「イサベル植民地」を築いた。しかし白人入植者の間では植民地での生活に不満の声が上り、周辺諸島ではアラワク族、タイノ族、ルカヤン族、カリブ族などのインディオの間で白人の残虐なる略奪行為に対して怒りが重積していた。

これに対し、コロンブスの率いるスペイン軍は徹底的な虐殺弾圧を行った。行く先々の島々で、鉄砲を持った歩兵と軍用犬を伴った騎乗兵からなるコロンブスの軍隊は、見たことのない馬にまたがった武装兵におののくインディオに対し、皆殺し作戦を行い、海岸部で無差別殺戮を繰り返した。女子供も逃さず強姦し殺戮した。まるでスポーツのように、動物も鳥もインディオも、彼らは見つけたすべてを略奪し殺し破壊した。

コロンブスがイスパニョーラ島でしばらく病に臥せると、コロンブスの軍勢は凶暴性を増し、島の狩猟採集部族を意のままに打ち破り、略奪、惨殺、強姦、放火、拷問を駆使して、インディオたちに黄金の在処を白状させようとした。スペインのキリスト教の宣教教師ラス・サカスによる、カリブ海の島々の破壊の実態を正確に記述したスペイン王への報告書に、この島に関する詳しい記述がある。「この島には300万人のインディオが住んでいたが、コロンブスが来てから50年後の1542年には、この美しかった島に生き残ったのは、ただの200人だった」

インディオたちは、ゲリラ作戦でコロンブスに報復を試みたが、スペイン軍の軍事力と彼らがばら撒く疫病は(※インディオには白人が持ち込んだ疫病(梅毒や淋病や天然痘など)に対する免疫がなかった)インディオの想像をはるかに超えていた。最終的に彼らは最善の策は「逃亡」であると決めた。 置き去りにされた作物は腐るにまかされ、やがてインディオたちを飢餓が襲ったのだった。

コロンブスが何カ月もの病いに臥せっている間、コロンブスの軍勢はやりたい放題の大虐殺を続けた。コロンブスが快復するまでに、五万人以上のインディオの死が報告されている。やがて完全復帰したコロンブスの最初の仕事は、彼の軍勢に対し、略奪を組織化することだった。

有色人種4

1495年3月、コロンブスは数百人の装甲兵と騎兵隊、そして訓練された軍用犬からなる一大軍団を組織した。再び殺戮の船旅に出たコロンブスは、スペイン人の持ち込んだ病に倒れ、それまで争い事がなく武器を持たないインディオの村々を徹底的に攻撃し、数千人単位の虐殺を指揮した。コロンブスの襲撃戦略は、以後10年間、スペイン人が繰り返し行った殺戮のモデルとなった。

コロンブスと同行し、虐殺を目にしていたラス・サカスは、日記にこう記している。「一人でもインディオが森にいたら、すぐに一隊を編成し、それを追いました。スペイン人が彼らを見つけたときはいつも、柵囲いのなかの羊のように、情け容赦なく彼らを虐殺しました。 『残虐である』ということは、スペイン人にとって当たり前の規則であって、それは『単に残虐なだけ』なのです。しかしそのように途方もなく残虐な、とにかく苛烈な取り扱いは、インディオに対しては、自分たちを人間だとか、その一部だなどと金輪際思わせないよう、それを防ぐ方法になるでしょう」

「そういうわけで、彼らはインディオたちの手を切り落として、それが皮一枚でぶらぶらしているままにするでしょう、そして、「ほら行け、そして酋長(しゅうちょう)に報告して来い」と言って送り返すのです。 彼らは刀の切れ味と男ぶりを試すため、捕虜のインディオの首を斬り落とし、または胴体を真っ二つに切断し、胴体を賭けの場としました。彼らは、捕えた酋長を火炙りにしたり、絞首刑にしました」

コロンブスがカリブ海諸島で指揮した行き当たりばったりの大虐殺は、「黄金探し」を使命としたスペイン海軍によって体系化され、あらゆる部族の子供以外のインディオが、3カ月以内に一定量の黄金を差し出すよう脅迫された。金を届けたインディオには、「スペイン人に敬意を表した」という証しとして、その男女に首かけの標章が贈られた。金の量が足りなかった者は、男だろうと女だろうと手首が斬り落とされた。

コロンブスらスペイン人の抱いていた幻想よりも当地の金の量ははるかに少なかったので、死にたくなかったインディオたちは、生活を犠牲にして金を捜さざるを得なかった。インディオが逃亡を始めると飢饉はさらに悪化した。コロンブスらスペイン人が運び込んだ疫病は、栄養失調となったインディオたちの弱められた身体をより激しく蝕んだ。そしてコロンブスたちと同じく、スペイン軍は面白半分に彼らを殺す楽しみを決してやめなかった。 (ウィキペディアより引用、追記)

スペインから始まった新大陸の争奪戦は西欧各国に広がり、「大虐殺を含む耐えがたい最大の恐怖を与えることは、与えられた側に従順さを生む」ことを、長い戦争の歴史から学んできた白人国家は、スペインと同一の残虐非道な手法で『何万年も前から、南アメリカ大陸に住み続けていたインディオ』を拷問・凌辱・大量虐殺し、奴隷化、南アメリカ大陸全土とその島嶼を白人のものとしたのです。

 

インディオ3

中南米の本当の国民(インディオ)

 

 

 

「正しい日本の歴史」 (目次)

http://rekisi.amjt.net/?page_id=9

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